令和4年十夜法要のお知らせ

秋の彼岸が過ぎると今年もお十夜の季節になります。

法源寺を開山(建立)した方は、観譽祐崇(かんよゆうそう)上人という僧侶で、大本山・鎌倉光明寺の第九世(9代目住職)になられた方です。

当時、十夜法要は勝手に行うことができず、天皇の勅許が必要でした。 当時、幕府のあった鎌倉で高僧として名高かった祐崇上人が、宮中に参内し『阿弥陀経』の講義を行い、真如堂の僧とともに引声念仏を修したことで、時の天皇より勅許を受け、以来浄土宗寺院でも勤修されるようになりました。そのような理由から、当山の十夜法要は歴史が古く、開山以来、五百二十余年にわたり受け継がれてきた伝統ある行事です。

コロナ禍ではありますが、この法灯を絶やすことなく、今年も感染症対策に努めながら昨年と同様の形式で厳修することとなりました。また、当日の法要や法話の様子はYouTubeでも配信いたします。

ぜひ、多くの方にご参加いただき、法縁を結んでいただければ幸いです。

令和4年10月14日(金)

    14:00~ 十夜法要

    14:45~ 法話「コロナ禍だからこそ考えたい葬送儀礼の意義」

※十夜法要に際し、ご志納下さった檀信徒の皆様には供養した小塔婆と利剣名号のお札をお渡ししたします。ぜひお参り下さい。

南無阿弥陀仏

秋彼岸信行会を厳修しました

ここのところ不安定な天気が続いております。静岡でも大雨が降り、浸水した地域があるようです。みなさまのお住まいは大丈夫でしょうか。

さて、新型コロナウイルスだけでなく、大雨にも見舞われましたが、おかげさまで秋彼岸信行会を無事厳修することができました。

今回も遠方の方にもお参りいただけるよう、YouTubeでもライブ配信いたしました。法要の様子と、法話の様子はそれぞれ以下の画面からご覧いただくことができます。

秋彼岸信行会 法要
法話 高橋明功 上人

彼岸は、サンスクリット語でパーラミータ(到彼岸)という言葉に由来します。「パーラミータ」はピンと来なくてもこれを音写した漢字「波羅蜜」であれば聞いたことがあるかもしれません。そうです、京都にある六波羅蜜寺の「波羅蜜」です。

六波羅蜜とは、布施(執着を捨てる)・持戒(悪を行わない)・忍辱(我慢する)・精進(努力する)・禅定(雑念を捨て、集中する)・智慧(ありのままにとらえ、真理を見極める)の六つの実践徳目のことを言い、これを身に付けることができればさとりが開けると言われています。

彼岸とは、本来さとりの境地を目指してこの六波羅蜜の仏道修行に励む期間をいいます。彼岸の中日(秋分の日)は、太陽が真西に沈む日です。真西には、西方極楽浄土があり、この浄土を思い浮かべながら、亡き人に思いを寄せ、お念仏を唱える彼岸信行会を当山では毎年行ってまいりました。

足元の悪い中、お越しいただいた皆様、オンラインでともにお参り下さった皆様には厚く御礼申し上げます。

コロナの影響もあり、寺院行事に限らず「集まる行事」は大きな打撃を受けています。コロナ収束後、これからの行事がどうなっていくのか不安もありますが、これまで受け継がれてきた伝統を大事にし、後世に仏法をお伝えするのも寺院の重要な使命です。

みなさまにお参りいただきやすいよう、さまざまな工夫をしていきたいと思っておりますので、ぜひお参りいただけましたら幸いです。

南無阿弥陀仏 

こどもおてつぎ奉仕団に参加しました

雪光殿で結団式。熊本や広島からの参加もありました。

8月18日(木)~20日(土)、総本山知恩院で開催された「こどもおてつぎ奉仕団」に行ってきました。

法源寺からは、実に3年ぶりの参加となりましたが、中学2年生1名、小学6年生2名の計3名(いずれも女の子)が、知恩院でのプチ修行に臨みました。

廊下を歩く時もナムアミダブ(撮影:おてつぎ運動本部)※プライバシー保護のため加工してあります。

例年、知恩院だけでなく、法然上人が修行した比叡山青龍寺への登嶺・宿泊もありますが、コロナ禍ということもあり、知恩院のみでの修行体験となりました。参加したお子さんから話を聞くと、知恩院前の白河での水遊びしたり、山門からの夜景を眺めたりと、普段とは違った形で、知恩院での修行を楽しんでいたようです。

また改めて、体験談を寺報『大久』に寄せてもらおうと思います。どうぞお楽しみに♪

皆さんのお子さん、お孫さんにも是非お勧めください。

世代間継承の大切さ

お盆は何の期間?

今年のお盆ももうすぐ終わろうとしています。ご先祖様はみなさまとの久しぶりの再会を楽しみ、両手にいっぱいのお土産を持ち、お浄土へと帰られていくことでしょう。

来るときは足の速い馬(キュウリ)を、帰りはゆっくり帰っていただくために牛(ナス)を用意します

さて、先日の朝のニュース番組で、お盆とは何をする期間か知らないと答えた若者が43.5%もいることが報じられていました。ひょっとしたら旅行に行く期間と思ってるのかもしれません。ニュースキャスターは、これはジェネレーションギャップでは済まされない、たとえ若者世代にうるさいと思われようと、伝えていくべきものはちゃんと伝えるべきだ、というようなことを話していました。

お盆とは、極楽浄土にいるご先祖さまが娑婆に帰って来る期間といわれています。
明治6年(1873年)に太陽暦が導入されたことを契機として、7月に行う新暦の盆、旧暦に則して8月に行う旧暦の盆と、地域により異なる時期に行われるようになりました。盆に行われる行事は地方によって様々な風習がありますが、先祖の霊を迎え、まつり、送るという形を基本としています。

盆月の1日は「釜の蓋が開く日」といわれ、あの世から先祖を含めたあらゆる精霊がこの世に向かって出発する日とされています。7日は盆に向けての準備の日であり、この日に墓掃除や盆道つくり(家までの道をきれいにすること)などを行います。13日には精霊を迎えるための盆棚をつくる。盆棚の飾りつけは多様であるが、キュウリとナスでつくった馬と牛、刻んだキュウリ・ナス・洗米を混ぜたミズノコなどを用意し、盆棚を飾り付けます。

13日の夕方には、墓、寺、家の前などで迎え火を焚き、精霊を迎えます。16日に送り火を焚き精霊を送るまでの間は、それぞれの家でまつられることになりますが、棚経もこれに合わせて行うことになります(当山では8日から14日にかけて行います)。ちなみに、京都の大文字焼きや長崎の精霊流しも祖霊を極楽浄土へ送る「送り火」の一種です。

お盆の風習は地域それぞれですが、地域ごとの残るその風習を次世代に伝えていくことは重要なことです。

法源寺の盂蘭盆会

法源寺では13日の夜に、新しく盆を迎える故人の供養も兼ねた盂蘭盆会を厳修しています。コロナ禍のため今年も新盆家のみ本堂にお上がりいただき、お勤めしようと思っておりましたが、当日は朝からあいにくの悪天候。台風上陸の予報もあり、お集まりいただくのは危険なことから、YouTubeで限定配信という形で皆様にはご参加いただきました(実際夕方には雨がやんでいましたのでお越しになった方もいました)。

YouTubeのライブ配信の様子。字幕を入れてわかりやすくしました。

後日、YouTubeをご覧になった方から「家族みんなでお参りできた」「わかりやすくてよかった」というお声もいただきました。きっと、同じ画面を子や孫と一緒に観て、手を合わせることで、先祖を供養する心を次世代へと伝えることができたのではないでしょうか。

お寺としても、様々なツールを使いながら、仏教のこと、浄土宗の教えのこと、仏事のことなどについて、みなさまに伝えていきたいと思います。

南無阿弥陀仏

盂蘭盆会・新盆家供養について

現在、台風8号が本州に接近しています。8月13日の昼過ぎから夕方にかけて静岡県に上陸する見込みがあり、線状降水帯の発生の恐れもあります。

移動時に十分な安全が確保できない恐れがあることから、本日、18:30から予定しておりました盂蘭盆会・新盆家供養は、来寺を控えていただきYouTubeでご参加いただければ幸いです。

YouTubeは寺報『大久』に記載のQRコードをスマホなどで読み込んでいただくか、こちらのリンクをクリックしていただけますとご覧いただけます。動画は当日のみの限定公開とし、後日の視聴は不可とさせていただきますことをご承知おきください。

新盆家の皆様におかれましては、塔婆供養をいたしますので14日以降に本日回向した塔婆を受け取りにお越しいただければ幸いです。

なお、本堂前に用意する予定でした焼香台も、暴風雨が予想されることから設置をいたしません。動画配信を視聴しながら、ご自宅仏壇にてご回向ください。

みなさまどうぞ安全にお過ごしください。

南無阿弥陀仏

7月の観音講を行いました

連日暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

法源寺は富士・富士宮地区にまたがる横道観音霊場の札所であることから、毎月17日に『観音経』を読む、観音講を行っています(1月、8月を除く)。

『観音経』は『法華経』の中の「観世音菩薩普門品第二十五」という一章のことをいいます。この経典には、 観世音菩薩の偉大なる慈悲の力を信じ、その名前を唱えれば、私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に直面した時に、必ずや観音が私たちの声を聞き救ってくれると説い ています。

観音菩薩は、音を観ると書きますが、衆生の苦しみや悲しみの声(=音)を観て(=聞いて)、さまざまな形に姿を変え救いに現れてくださる菩薩様です。

ここのところ、コロナの感染者が急増し、真鍮穏やかでない日々をお過ごしの方も多いと存じます。政府からの行動制限はありませんが、お出かけの予定を変更された方もいらっしゃるかもしれません。私たちの生活の中での大変さや辛さもきっと仏様は受け止めてくださることでしょう。こういうときこそ、声を届けて、お救いいただきたいと思います。

暑い中ご参加くださった皆様、ありがとうございました。

8月の観音講はお休みです。次回は9月17日。どうぞふるってご参加ください。

「世間の物差し」を手放そう

5月の中旬、ある全国紙の読者からの相談コーナーで、50代の会社員女性から子どもに関する相談が寄せられていました。

簡単に紹介すると、「友人の子どもは進学校に行き、有名大学に進学した。自分の子どもは誰一人進学校に行けなかった。自慢したかったのに全くできない。できる子の親がうらやましい、自分の子の出来の悪さが恥ずかしい」というものです。

子を持つ親になって感じたことですが、このお母さんの気持ちもわからないわけではありません。生まれたときは五体満足で生まれてきてくれれば、とそれだけ願っていたのに、成長するにつれ、つい、「あれができたら」、「これができたら」と考えてしまいます。そして、「これができたら」の「これ」は社会で評価が高いものだったり、世間で価値が認められているものだったりします。

このお母さんのように「自慢したい」という動機ではなくても、我が子に社会で成功してほしい、社会で立派と言われるような人になって欲しいという思いは少なからず持つのではないでしょうか。しかし、世間や社会の評価基準でうまく測れない子どもたちもいます。「自分は〇〇ができない」「自分には価値がない」なんて思ってしまうと、自己肯定感が得られないまま育ってしまうことになりかねません。

さて、6月の中旬、同じ新聞の読者からの相談コーナーで、20代のアルバイト女性から、こういった相談が寄せられていました。

かいつまんで紹介しますと、「自分の存在意義がわからない。才能はなく、中学校も不登校、高校もすぐに休学してしまった。その後、通信制高校を卒業したものの、学歴はない。私は負け組だろう。言い訳を考え、周りのせいにしようとする自分の浅はかさも嫌だ。自分は何のために生きているのだろうか」というものです。

まるで、さきほど紹介した「相談」のつづきのようなものです。相談を寄せた両者に親子のつながりがあるわけではないでしょうが、これを読んで心が苦しくなりました。

生まれてきたときには、「生まれてきてくれてありがとう」、「元気でいてくれればそれでいい」と願ってたのに、いつの間にか世間の物差しで我が子を測ってしまう。その結果、生きづらさを抱えて苦しい思いをしている人が少なからずいます。でもその「世間の物差し」は未来永劫不変でしょうか? 

ある時、急に日の目を浴びたり、逆にそうでなくなったりすることなんていっぱいあります。スポーツ競技が、オリンピック種目に採用されるかどうかなどは典型的な例といえるでしょう。採用されれば、スポットライトが当たり、メディアでも特集が組まれます。競技人口にも影響するでしょう。

さて、浄土宗で大切にされている経典の一つに『阿弥陀(あみだ)(きょう)』というお経があります。その中には、「青色(しょうしき)青光(しょうこう) 黄色(おうしき)黄光(おうこう) 赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう) 白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)」という一説があります。

これは、阿弥陀仏の浄土に咲く蓮の花のありさまを語ったもので、「青き色には青き光、黄なる色には黄色の光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり」という意味です。もっといえば、私たち一人ひとりが、すでに、それぞれの色を持ち、光り輝いていることを語っています。青い色は、黄色い光を放とうとはしないですし、赤い色は、白い光になろうとはしません。

私たちは、すべからく本来の姿のままで、価値ある尊いものです。誰もがみな、得意なこと、不得意なこと、できること、できないことを持っています。今できることすら永久ではありません。年老いて、あるいは体の具合が変化して、それまでできていたことができなくなってしまうこともあるかもしれません。他者と比べて多少(すぐ)れたところがあったとしても、仏様からしたら大した違いのない凡夫(ぼんぶ)にすぎないのです。

どうしてうちの子はこれができないのかとお悩みの親御さんたち、自分はなぜうまくいかないのかと生きづらさを抱えている方々、ぜひ「世間の物差し」を手放してみてください。人は生きているだけで価値ある尊いものです。他者と比べて、自らを苦しめないでください。

ただいま子育て真っ最中の私です。この法話を、自らの戒めとしたいと思います。

南無阿弥陀仏

ジャガイモの収穫

3月上旬に植えたジャガイモがそろそろ採り頃かなということで、ジャガイモを収穫しました。前日に大雨と突風が吹き荒れましたが、農園の野菜たちは無事でした。

メークインはマルチをしてあったので早々に大きく育ちました。やはりマルチの効果は大きいですね。たくさん収穫することができたので、ご近所さんやちょうどお参りに来ていたお檀家さんにもおすそ分けすることができました。
一方、初挑戦のキタアカリは、、、生育不良でなかなか大きくなりません(悲)

人生、上手くいくときもあれば、上手くいかないときもありますよね。ましてや自然相手であれば、人間の力の及ばないことの方が多いかもしれません。

思い通りにいかないとつい苛立ちを感じることがあるかもしれませんが、こういった我執(がしゅう)を戒めるよい体験になりそうです。どんなことがあっても、腐らず、奢らず、若者たちと作業を進めたいと思います。

さて、ジャガイモの後には枝豆を植えようかなと計画しています。
また、今年は畑を少し広くしたので、サツマイモ、キュウリ、オクラ、そしてスイカを植え付けてみました。どれが上手に育つでしょうか。

またご報告いたします!

岳陽組檀信徒総会開催

5月14日(土)、富士宮の大頂寺さまで3年ぶりに岳陽組檀信徒総会が対面で開催されました。

浄土宗ではおおよそ各県に一つの教区があり、教区の中に「組」という単位の地域ごとのグループがあります。岳陽組というのは、富士・富士宮・沼津にある13か寺の浄土宗寺院で構成されています。この檀信徒会は、檀信徒同士でおてつぎ奉仕団に参加したり、団参に行ったりと、横のつながりを持つ場となっています。

昨年度より、当山の檀家総代である井出公治さまが岳陽組檀信徒会の会長となり、法源寺としても檀信徒会が盛り上がるよう支えております。新型コロナはまだまだ予断は許されませんが、今は小康状態というところでしょうか。久しぶりに対面での総会開催となり、互いの無事を確認し合う喜ばしいひと時となりました。

さて、例年、総会の後には「法話」があるのですが、こういう時期ですのでせっかく先生をお招きしても流れてしまうかもしれない、、、。遠方から先生を呼ぶのも憚られるということで、私(法源寺副住職)に白羽の矢が立ちました。

法話では、「コロナ禍だからこそ考えたい葬送儀礼の意義」と題して、葬儀の歴史から現代の葬儀の変化の背景をご紹介し、グリーフケアとしての葬送儀礼の役割についてお話しさせてただきました。

その内容についてはまた改めてこちらでも紹介したいと思いますが、ご参加の皆様はメモを取りながら熱心に聞いてくださいました。人と人との付き合いが変わっていく中で、葬送儀礼の意味や価値を見直したいという思いもあったのだと思います。これからも様々な場で積極的に伝えていきたいと思った次第です。

合掌

観音講のお勤めをしました

当山では、1月と8月を除く毎月17日13時から観音講を行っています。ここのところコロナ禍で縮小気味でしたが、4月17日は大勢の方を迎え、久しぶりににぎやかな観音講をお勤めすることができました。

法源寺は、富士富士宮地区にまたがる横道観音霊場の第二十六番札所として千手観音菩薩を位牌堂に安置しています。そういったご縁もあり、千手観音の縁日である17日に観音講を行っております。

読経するのは『法華経』の中にある「観世音菩薩普門品第二十五」という一章で、俗に『観音経』と言われています(そのほか、般若心経や念仏もお唱えします)。読経時間は30分程度ですが、木魚をたたき、声を出すことで、実に清々しい、すっきりとした気持ちになれます。これは読経のデトックス効果とでもいうのでしょうか(笑)

※写真は加工してあります

お勤めの後は、書院に移動してお茶の時間。みなさん、いろいろな話題に花を咲かせ、楽しいひと時を過ごしています。この日は、参加した方から、富士市総合文化祭の紹介や、ウクライナ支援チャリティコンサートの案内などもあり、文化や平和についても考える機会をいただきました。

参加者からは「こうやって人と会って話をすると、いろいろな情報が入っていいね」というお声も。コロナ禍で各所でデジタル化が進み、情報伝達ではずいぶん便利な時代になりましたが、交流を深めるという点において、やはり、顔を合わせて一緒にお勤めしたり、お話ししたりすることに勝るものはありません。こうして少しずつ以前の日常が戻っていくことを願っています。

観音講はどなたでもご参加いただけますので、ぜひ一度お参りください。

南無阿弥陀仏

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