法源寺について

法源寺縁起

法源寺は、室町時代に開かれた浄土宗のお寺です。旧東海道・吉原宿と蒲原宿の間の宿・本市場に位置し、境内からは雄大な富士山の姿を拝むことができます。その開創は、史料によって差異があり、応永元年(1394)、あるいは明応元年(1492)ともいわれていますが、浄土宗の大本山のひとつである鎌倉光明寺の第九世・長蓮社観誉祐崇上人が深くかかわっているとされます。また、寺院の場所も、当初は米之宮浅間神社の東隣にありました。

開創後、乱世にあって小寺であったため、長らく無住時代が続きましたが、天正年間(1573-1591) 武田勝頼家臣 高田六郎兵衛が本市場中宿 飯塚氏の婿となり、寺と檀縁を結び、寺院を現在の地に移転しました。その後、同じく有力檀徒であった小楠氏が、誠蓮社澄誉上人を招いて、本堂を建立し寺観を整えたようです。ここにおいて、元来、米之宮神社近辺に堂宇があったことから、山号を米宮山、寺号を法源寺としました。

現在の本堂は、明治38年(1905)に建立されたもので、堂内には、本尊として阿弥陀如来立像が安置されています。この阿弥陀如来像の歴史は法源寺の創建より古く、平成の修理の際、嘉禎4年(1238)に造立されたものであることがわかりました。また、昭和2年(1927)に増築された位牌堂には、伝源満仲公作といわる千手観音菩薩坐像が祀られています。こちらは霊験深い厄除け観音であることから、当山は江戸時代に成立したといわれる富士横道観音霊場の第26番札所にもなっています。

浄土宗の教え

浄土宗は平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した法然上人(1133年-1212年)によって開かれた宗派です。浄土宗の教えは、極楽浄土にいらっしゃる阿弥陀如来の「我が名をとなえる者は誰でも極楽浄土に救いとる」という言葉を信じ、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と念仏を唱えることで、西方極楽浄土に生まれることを願う信仰です。このように、仏の名前を声に出して唱えることを、称名念仏(しょうみょうねんぶつ)と言います。いまでこそ「念仏」といえば声に出すものが一般的ですが、法然上人の時代にあっては、心の中で仏の姿を思い浮かべる観想念仏(かんそうねんぶつ)が主流でした。

しかし、仏の姿を思い浮かべる観想念仏の実践は、経典の内容を正確に読み解いたり、修行に集中できる環境に身を置いたりすることができなければ難しく、これは学識も機会もない一般の民衆にとって実にハードルの高いものでした。そこで法然上人は、いつでも、だれでも、どこでもできる実践として声に出す称名念仏を勧めたのです。シンプルな実践でありながら「阿弥陀仏の願力によって必ず救い取られる」という力強い教えは、明日をも知れぬ日々を送っていた多くの民衆のよりどころとなっただけでなく、時の関白・九条兼実や源氏の武者・熊谷直実といった貴族や武士からの帰依も集めました。

浄土宗の教えのもう一つのポイントは、できない自分、弱い自分を認めることです。自分の至らなさや弱さを受け入れるからこそ、仏の救いを心から求めることができるというもの。弱音を吐くことが難しい・・・、できる自分を演じるのが疲れてしまった・・・という現代人にはきっと心安まる教えとなるでしょう。阿弥陀さまの前でお念仏を唱えれば、「大丈夫、無理に頑張らなくてもいいよ」「うんうん、そういうときもあるよね」というメッセージがきっと伝わってくるはずです。

境内の景観

法源寺の坊さん

髙瀨裕功(たかせ ゆうこう)

法源寺第二十四世(住職)。県立高校教諭(教科は日本史)として奉職し、長らく二足の草鞋を履いていた。定年退職後も部活指導の経験を活かし、外部指導者として近くの高校で剣道を教えている。思い立ったら即行動タイプ。剣道教士七段。

髙瀨顕功(たかせ けんこう)

副住職。一般大学を出て、地元の養護学校の教員をしたりしながら、回り道をして浄土宗僧侶となる。現在、大正大学で教鞭をとるかたわら、生活困窮者支援団体「ひとさじの会」代表として社会実践にもかかわっている。住職と似ず割と慎重派。甘党。

高橋明功(たかはし みょうこう)

一般の家庭に生まれ育つが、思うところがあって出家。刑務官として静岡刑務所に奉職していた。総本山知恩院布教師として研鑽を積んでいるため、お坊さんオーラがとてもあり、住職と間違えられることも・・・。住職の大学時代の後輩で、こちらも剣道教士七段。