【11月の言葉】見えないけれど 大切なもの

少し、心の眼、心の耳を研ぎ澄ましてみて!
目に見えないものを感じる豊かさを大事にしよう
Not everything that is important can be seen.
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浄土宗月訓カレンダーの11月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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信州・善光寺には「お戒壇巡り」と呼ばれる体験があります。真っ暗闇の回廊を手探りで進み、極楽の錠前を触れることで、現世の罪が滅し、極楽往生が叶うとされているものです(京都・清水寺にもありますね)。光のない世界で、触覚や聴覚を頼りに進むのは至極困難なことです。

実際、人の情報判断の8割は視覚から得ていると言われます。言い換えれば、私たちは見えるものに頼っている、ということです。

しかし、目に見えるものがすべてではありません。また目に見えているからと言ってそれが正しい姿であるかどうかはなかなか判断しづらいものです。ましてや、至らぬ私たちですから、見えていると思いこんで見失っていることもあれば、見えているからこそ惑わされることもあります。

視覚情報に頼り切っているものですから、見えないものを大切に扱うということもおろそかにしがちです。見えるものにしか価値を見出せなくなっている病とでもいえるでしょう。

先日、東北地方のある山間の町の古老からこんな話を聞きました。

集落の共同墓地が町のはずれにあり、そこには100基ほどのお墓がありました。どの地域でもそうですが、このあたりも年々人口が減り、現在は数えるほどの人で管理しているとのこと。維持管理のため、地域外に住む人からも墓地の清掃や整備のため1,000円ほどの年間管理料をお願いしていたところ、ある年、「このお金がどのように使われているのか会計報告をしてほしい」と言われたそうです。それ以来、事務仕事は増えたが、領収書をつけ、会計報告を出すようにしているとのことでした。

1,000円だろうと貴重なお金ですので何に使われているかを知ろうとするのは普通のことです。しかし、会計報告があれば適正に使われているかが本当にわかるのでしょうか。紙の報告書より、実際にお墓参りに行く方がよっぽどよくわかるでしょう。墓地の通路に雑草がない、落ち葉や倒木がない、トイレが設置されている、駐車場の入り口が舗装されているなど、気持ちよくお参りできる環境が整えられていることに気づくはずです。そして、それはその地に住み続け、その場を守り続けている人がいるからこそ可能であるということも。

書面で「見える化」することに慣れていると、こうした発想になるのかもしれません。しかし、その「見える化」は果たして物事の実態が見えていることになるのでしょうか。

ご先祖様しかりです。ご法事やお墓参りの際、「先祖」にどのくらい思いを向けられるでしょうか。直接、顔を見たことがある祖父、祖母はイメージがわきやすいですが、祖父、祖母にも父や母、祖父、祖母がおります。そして、その祖父の祖父、祖父の祖母、祖母の祖父、祖母の祖母にもそれぞれ父や母がおり・・・。こうして10代さかのぼると1024人になりますが、このうち一人でも欠けると今の私たちはこの世におりません。見たことはないけど、存在はしている自分のルーツの有り難さにどれほどの人が手を合わせられているでしょうか。

見えないけれど 大切なもの

「かんじんなことは 目に見えないんだよ」

フランスの作家サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の有名な一節です。
洋の東西を問わず、大切なものは目でとらえようとするのではなく、思いを巡らせ、心で感じなければ受け止められないと言われ続けてきたいうことでしょう。

あなたにとって「見えないけれど大切なもの」は何ですか?
秋の夜長にぜひゆっくり考えてみてください。

南無阿弥陀仏

サツマイモの収穫祭

先日、お寺の農園「青空」でサツマイモ掘りをしました。

この農園は富士市就労支援ネットワーク「ココ☆カラ」とつながる若者たちの力を借りて管理・運営されています。ココ☆カラは引きこもりや不登校の当事者、家族をサポートするNPOで、ブランクがある若者が就労や社会復帰を目指すための支援を行っています(農園部立ち上げの経緯はこちらをご覧ください⇒農園部発足!農園部収穫!)。活動開始は2021年ですが、2023年からは公益財団法人浄土宗ともいき財団の支援を受けています。

この日はゴールデンウイークに植えたサツマイモの収穫ということで、檀家さんやご近所さんのお子さんたちに声をかけて、みんなでイモ掘りをしました。

先々週の試し掘りの段階では、あまり大きなものはなく、今年は失敗かなぁと思っていましたが、掘れば掘るほど大きなサツマイモが出てきてみんな大喜びでした。

ココ☆カラのお兄さん、お姉さんは、子どもたちのために畝(うね)を崩したり、穫れたイモをきれいに拭いたり、サポート役に徹してくれました。みなさん、サツマイモを見つけて喜ぶ子どもたちを見て、野菜を育てる喜びだけでなく、収穫を分かち合う喜びも感じたのではないでしょうか。

収穫後は仏様にお供えして「大きく育ててくれてありがとう」「来年もいっぱい穫れますように」とお礼とお願いをしました。お参りの後は、収穫したサツマイモを分けて、おやつタイム!子どもたちもお菓子をほおばりながらにぎやかに談笑していました。

参加した子どもたち、保護者、ココ☆カラの若者、ボランティアスタッフは、みな年齢も性別もバラバラで、お互いに「初めまして」の方もいらっしゃいましたが、終始和やかな雰囲気で、和気あいあいとサツマイモ収穫祭を楽しむことができました。

お寺は楽しい場所、気軽に来れる場所と感じていただけたら嬉しいです。

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※本活動は、公益財団法人浄土宗ともいき財団の助成を受けています。

富士ニュースでとりあげられました(十夜法要)

先日の十夜法要の様子が、10月19日付の富士ニュースの紙面に紹介されました!

片山先生のご講演だけでなく、十夜法要の歴史や当山との関係についてもふれられています。お檀家さんはもちろんのこと、地域の方々に法源寺のことを知ってもらうよい機会になったのではないかと思います。

南無阿弥陀仏

十夜法要をおつとめしました

10月14日14時より、本堂にて十夜法要を厳修いたしました。

十夜法要とは、浄土宗に伝わる念仏会で、当山の開山上人である鎌倉光明寺第九世・観譽祐崇上人が、室町時代に後土御門天皇の勅許を得て浄土宗寺院で行うことが許されるようになった由緒ある法要です。

この十夜法要は『無量寿経』の一節にある教えを実践したものです。そこには、「娑婆世界で十日十夜の間、善行を修めることは、仏の世界で千年にわたって善行に励むよりもすぐれている」と説かれています。

法源寺では今年も大勢の檀信徒の皆様にお参りいただき、功徳を積んでいただきました。

法要後は、片山善博先生をお招きし、「人口減少下の日本~活気ある地域をつくるには何が必要か~」というテーマでお話しいただきました。日本全体で人口減少局面に突入し、特に地方都市では人口減少が年々進んでいます。しかし、こうした中にあっても、生産性を向上させることで対応できるとのこと。そして、生産性向上のためには、いきいきと働ける環境を整えること、性別や障害の有無で役割や能力を決めつけないこと、男性も育休をとり子育てに参加することなどが肝要であるとお話しくださいました。

仏教では、偏見や固定概念を離れて物事をありのままでとらえることを大事と説きます。まさに、こうした教えに通じるものが社会の維持発展の役立つものだとあらためて感じるお話でした。

なお、講演会には檀信徒以外の方の参加もあり、大変にぎやかな十夜法要となりました。

ご参加くださった皆様、運営にご尽力くださった総代、世話人の皆様、ありがとうございました。

南無阿弥陀仏

令和7年度十夜法要ご案内

今年も10月14日に十夜法要を行います。十夜法要とは、浄土宗に伝わる念仏会で、当山の開山上人である鎌倉光明寺第九世・観譽祐崇上人が、室町時代に後土御門天皇の勅許を得て浄土宗寺院で行うことが許されるようになった由緒ある法要です。

当山では毎年法要にあわせて、布教師による御法話、コンサート、落語などを行ってまいりましたが、今年度は、元・総務大臣の片山善博先生をお招きし「人口減少下の日本~活気ある地域をつくるには何が必要か~」というテーマでご講演をいただきます。

片山先生はコメンテーターとしてテレビでもよく目にする機会もあるかと思いますが、現在大正大学地域創生学部の特任教授で、副住職と同僚(立場は違いますが…)ということで、このたびお越しいただくこととなりました。

みなさま、どうぞお誘いあわせの上ご参加ください。

なお、檀信徒以外の方の参加、聴講も歓迎です(参加費無料)。
十夜法要終了後(14:30頃)、本堂にお入りいただければと思います。浄土宗の法要を見るよい機会として、法要から参加くださっても構いません。

〈プログラム〉
13:00 受付開始
14:00 十夜法要
14:40 講演(片山善博先生)
15:40 終了予定

〈片山善博先生 略歴〉
1951年岡山市生まれ。74年、東京大学法学部卒業、自治省に入省。99年、鳥取県知事(2期)。2007年、慶應義塾大学教授。2010年9月から11年9月まで総務大臣。2017年、早稲田大学公共経営大学院教授。現在、大正大学地域創生学部教授、同大学地域構想研究所所長。著書に『知事の真贋』(文春新書)、『地方自治と図書館』(共著:勁草書房)など。

【10月の言葉】右は仏 左は私 合す掌

合掌する左右の手、それは、仏様に対する深い思いの表現。
その時、平和でおだやかな時に抱かれます。
When you bring your hands together in prayer,
you bring the Budda and yourself together.
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浄土宗月訓カレンダーの10月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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今から20数年前、初めての海外旅行はインドの仏跡巡拝でした。
仏跡とはお釈迦様にまつわる場所のことで、お生まれになったルンビニ、さとりを開かれたブッダガヤ、初めて法を説いたサ-ルナート、そして涅槃に入られたクシナガラの四つを四大聖地と呼びます(このうちルンビニはネパールにあります)。

インドでは毎日カレーを食べましたが、インドの方は手で召し上がります。そして、使うのは決まって右手だけです。なぜなら、インドでは右手は清浄な手、左手は不浄な手として認識されているからです。こうした、手に対する浄不浄観はヒンドゥー教由来のものです。ヒンドゥー教の原型は、バラモン教と言われていますが、バラモン教は古代インドから多くの人々の生活や思想に影響を与えていました。合掌もその一つです。

合掌は、右手はさとりを開いた迷いなき仏を、左手が迷いの世界に生きる私たち衆生を表し、この浄なる右手、不浄なる左手をあわせることで、仏さまと私たちが一体となることを願う姿を象徴すると言われます。

その昔、仏壇屋さんのCMで「お手てのしわとしわを合わせて“しあわせ”、なーむー」というものがありました。今でも合掌する時というのは、仏事以外でも、敬意や感謝を示すときに使います(ときには謝罪も?)。仏と私が一体となった姿ですので、いくら至らない私たちでも仏の力で心が清らかになりますから、自然と穏やかな心になるものです。

右は仏 左は私 合わす掌

10月はお十夜シーズン。浄土宗の各寺院で十夜法要が営まれます。
十夜法要とは、十日十夜にわたって行う念仏会のことで、古くは室町時代、鎌倉光明寺九世であった観譽祐崇上人によって浄土宗にもたらされた由緒ある法要です。この季節、きっとお寺にお参りして念仏を称える機会も多くあることでしょう。

合す手と手に御仏を感じながら、御仏の名を声に出す。きっと心は穏やかになるに違いありません。合掌して念仏を称えるこの素晴らしい勝縁に、ぜひともお参りいただければと思います。

南無阿弥陀仏

秋彼岸信行会をおつとめしました

9月23日(火・祝)18:30より、秋彼岸信行会をおつとめしました。
めっきり秋らしくなり、すがすがしい気持ちで皆さんと一緒にお念仏をお称えすることができました。

法要後にはフルート・オカリナ奏者の村林涼子さんによる、牧之原特復興支援ミニコンサートを開催しました。

今回は、フルートのほか、ライアーハープ、ケーナといった珍しい楽器も演奏くださいました。ライアーハープはドイツ発祥の小さな竪琴でとてもやさしい音色が特徴です。ケーナは南米アンデス地方の縦笛で哀愁を帯びた音色を奏でます。

彼方の光、シューベルトの子守歌、ジュピター、風の旅人などを演奏いただきました。その後、アンパンマンのマーチ、見上げてごらん夜の星を、を一緒に歌い、和やかな雰囲気の中で演奏会は幕を閉じました。

お参り下さった皆様ありがとうございました。

★☆★10月1日 追記★☆★
このミニコンサートで集まった募金(25,000円)は社会福祉法人静岡県共同募金会を通じて「令和7年台風第15号災害静岡県義援金」として寄付いたしました。ご協力くださった皆様に感謝申し上げます。

静岡教区檀信徒大会開催

9月18日、富士ロゼシアターにて、浄土宗静岡教区檀信徒大会が行われました。岳陽組は開催地区の当番でしたので、組内寺院の世話人様の力を借りながら、大会運営に尽力しました。

檀信徒大会前には、おてつぎ運動推進大会を併修し、知恩院執事の神田眞晃上人をお招きし、法話をいただきました。

檀信徒大会では、三遊亭円楽師匠の「時そば」「親子酒」、志賀昭裕氏による南米の弦楽器・アルパの演奏なども楽しみました。円楽師匠は以前、王楽時代に法源寺の十夜法要で一席お話をいただきました。現在は、7代目円楽として、楽太郎師匠の跡を継いでいらっしゃいます(血縁上の父は笑点でもおなじみの好楽師匠です)。

また、アルパの演奏をされた志賀さんは、知恩院のライトアップの時期、三門前で演奏を何度もしてこられたとのことで、浄土宗とのご縁も話してくださいました。
アルパはラテンハープともよばれ、パラグアイやコロンビアなどで演奏されるそうです。地球の裏側の国の楽器ですが、その音色はどこか哀愁漂うもので、神田川や秋桜、なごり雪など往年のヒットソングを演奏して下さり、会場の参加者も大喜びでした。

受付係でしたので、落語も演奏もあまりじっくり聴くことはできませんでしたが、会場から漏れる笑い声や拍手に、ご参加の皆さんの満足感が伝わってまいりました。また、帰り際には、ねぎらいの言葉を多くかけていただき、組内で一丸となって取り組んでよかったなと感じられました。

南無阿弥陀仏

【9月の言葉】備えは今から

思わぬ事態が起きてから対応するのは簡単ではありません。日々準備を積み重ねていくことが大切です。
The time to get ready is now.
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浄土宗月訓カレンダーの9月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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9月1日は防災の日。各地で防災訓練が行われます。この日が防災の日となったのは、1923年(大正12年)のこの日に関東大震災が起きたことに由来するそうです。ちなみに法源寺前住職の功旭上人はこの前日、1923年8月31日に生まれました。マグニチュード7.9の大地震の揺れは、ここ富士でも感じられたようで、当時、本堂裏手にあった竹やぶに、前住職の母が生まれたばかりのわが子を抱えて逃げ込んだという話を伝え聞いております。

天災は忘れたころにやってくるとはよく言ったもの。日本は古来より、地震や津波、台風など自然災害に悩まされてきました。そうした、一大事のために日頃から備えをしておくことは大切です。

私たちが生きていく中においても一大事はあります。病気やケガも一大事ですが、一番大きなことは、この世の命を全うする時、すなわち命尽きる時です。

私たちは生まれる時代や国、家を選ぶことはできませんが、この世に生を受けたものにとって平等に与えられた条件が2つあります。

ひとつは一日が24時間であること。
もうひとつは命に終わりがあること。

お金持ちも貧しい人も、学のある人もない人も、優しい人も、いつも怒っている人も一日の長さは変わりません。そして、いつ終わるかはわかりませんが、すべての人には命の終わりがあります。しかし、日常の中で「死」を考えて生きることは少ないのではないでしょうか。

最近、ある方からこんな話を聞きました。

父親を病院に連れて行ったら緊急入院となり、そこで経管栄養(鼻あるいは口から胃まで挿入されたチューブで栄養をとること)となってしまった。誤嚥性肺炎のおそれがあることから、もう口から食事をとることができない。親父の最後の食事は、病院までの道すがら小腹ふさぎに買ったコンビニのいなり寿司になってしまった。すまないことをしてしまった、と。

私たちは明日も当たり前に来ると思っています。ご飯もまた食べられると思っているでしょう。その方も、ちょっと病院で見てもらったら帰りにおいしいものでも食べて帰ってこようと思っていたかもしれません。今の、この一食が、口から食べる最後の食事になるとは思っていなかったことでしょう。

終わりがわかれば備えもできますが、終わりは突然訪れるもの。

法然上人も以下のように言っています。

人の死の縁は、かねて思うにもかない候わず。にわかに大路みちにて、終わる事も候。大小便利のところにて死ぬる人も候。前業逃れがたくて、太刀かたなにて命を失い、火に焼け、水に溺れて、命を滅ぼすたぐい多く候えば、さようにて死に候とも、日頃の念佛申して極楽へ参る心だにも候人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀・観音・勢至、来たり迎え給うべしと信じおぼしめすべきにて候なり。

(現代語訳)
人が死ぬ時というのは、普段の思い通りにはいかないものです。道を歩いていて突然倒れて死んでしまうこともあれば、お手洗いで用を足している最中に死んでしまうこともあります。前世での行いによって刀などで斬られて命を失うこともあれば、火事で亡くなったり、水に溺れて命を落とす人も多くいます。しかし、たとえそのような亡くなり方をしても、日頃から念佛をとなえ、極楽へ往生したいという心を持っている人なら、息絶える時に、阿弥陀様が観音菩薩と勢至菩薩と一緒にお迎えに来て下さるのだと信じて思い定めるべきです。

我々はどのようなタイミングで、また何が原因で命を落とすかわからない。だからこそ後世の安穏を願って念仏に励みなさいということですが、現代の人であれば、いつ命が終わるかわからないので悔いのないように日々精進しましょうと言い換えてもよいかもしれません。

備えは今から

今ある命は有難し。
どうぞその命を全うしてください。
そして後世の安穏のための準備を今から少しずつ始めてください。
命の終わりを思う時、念仏の声に自然と思いがこもることでしょう。

南無阿弥陀仏

「かせぎ」と「つとめ」—お盆雑考

もうすぐ8月が終わろうとしています。
今年のお盆の棚経では、お檀家の皆さんからたくさんのお話を聞かせていただきました。
健康不安の話、孫の推し活の話、親の介護の話、墓じまいを考えている友人の話などなど。

その中で、ある方から、「今年は町内会の役が回ってきた。これから数年、お祭りだなんだで忙しくなりそうだ」というようなことを伺いました。地域のために働くことは大切なことです。近年では、そうした役を断る人も増えてきていると言います。その方の地域でも、断った方がいたそうです。しかし、「でも誰かがやらないと、祭りもできないし、いろいろなことが回らないからね」とその人は受けることを決めたそうです。

文化人類学者の山口昌男(1931-2013)の本の中にこんな話がありました。

日本には「かせぎ」と「つとめ」というふたつの労働の観念があった。かつては、「かせぎ」がたくさんあっても、「つとめ」がなければ一人前と認められなかった。今は、「かせぎ」はいいかもしれないが、労働観念のなかから「つとめ」をなくしていまっている。人を見る目、社会人を見る目が「かせぎ」型になっている。

ここでいう「かせぎ」とは金銭のこと、「つとめ」とは困った時や必要な時まわりの人を助けること、といってよいかもしれません(本の中では、堤防の決壊、火事、凶作、干害、死人が出た、というとパッと出て行ってふんどし一丁で働くことが「つとめ」となっていましたが、平時にあっても回りを助けることと解釈できます)。

地域の役もまた「つとめ」のひとつと言えましょう。「かせぎ」には直結しないかもしれないけれど、共同体を維持するためには必要な労働です。共同体は地域だけではありません、家族もまた共同体です。家族は勝手に維持されているわけではなく、誰かが家族が家族であるために見えない働きをしているから維持されているのです。

私たちの社会にはこうした「つとめ」が至る所にあることでしょう。「かせぎ」の場である職場にも「つとめ」はあるでしょう。見えない労働に感謝をすることはもちろんですが、自分自身もまた誰かのために見えない労働をすることが大切です。

自分だけよければいいと考えるのは、仏教の利他の精神にも反します。

「かせぎ」だけに心を奪われ、「つとめ」を忘れてしまうことがないよう気を付けたいなと思った今年のお盆でした。

南無阿弥陀仏

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