【8月の言葉】争いなき 平和な支え合い

自身のことを優先し他者とぶつかり合いがちな私たち。
相手を思い、助け合う気持ちを持つこと、それが平和への第一歩です。
Practice thinking of others before you think of yourself. This will bring peace to the world.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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8月は終戦記念日を迎える月です。1945年から数えて81回目の夏。戦没者の慰霊とともに、平和の尊さをあらためて思う時期でもあります。

自分のことを優先し、他者とぶつかり合ってしまう。それは個人と個人の間だけでなく、国と国との間でも変わらないようです。今年はイランとアメリカの間で軍事衝突が起こり、多くの命が失われました。一時は停戦の合意もなされましたが、それも長くは続かず、争いは今も続いています。自国の利益や正義を優先するあまり、争いがやまない。その構図は、私たちの日常の小さな諍いと、根っこのところでつながっているのかもしれません。

お釈迦さまは『法句経』の中で、「怨みに怨みを返せば、怨みがやむことは決してない。怨みを捨ててこそ、はじめてやむ。これは永遠の真理である」と説いています。争いは、争いによっては終わらない。恨みに恨みで応じれば、その連鎖はどこまでも続いていくのです。

実は浄土宗を開いた法然上人は幼少期、父親が政敵に討たれるという辛く悲しい経験をしました。しかし、死の間際、父である漆間時国は「もし、おまえが恨みをもったならば、その恨みは何世代にわたっても尽きがたいであろう。早く俗世を逃れ、出家して私の菩提を弔い、おまえ自身も、悟りをもとめるにこしたことはない」と幼い法然上人に伝えたと言われています。恨みは争いを呼び、争いは平和を遠ざけることを知っていたのでしょう。

親を討たれた恨みは計り知れないものですが、日ごろ私たちはちょっとしたことでも恨みや妬みを感じます。

その恨みや妬みは争いの根本ですが、結局はわが身の可愛さによるところが大きいのです。自分の利益を最大化したいという欲、どうして自分ばかりという不公平感、どこまでいっても自分、自分、自分です。

自分を優先する心を脇に置き、まず相手を思う。その小さな心がけの積み重ねが、争いの連鎖を断ち切る唯一の道であると二千五百年前から説かれてきました。心がけでは世界の戦争を止めることはできないかもしれません。けれども、家庭の中で、地域の中で、目の前の人を思いやり、争わずに助け合うことならできるはずです。

争いなき平和な支え合い

ところが頭では分かっていても、いざとなると自分のことを優先してしまう。相手を思う心を大切にしたいと願いながら、なかなかそうはできない。それが私たち凡夫です。

その弱さを責めるのではなく、手を合わせ、お念仏を称える。その時間の中で、争わずにいられなかった一日を、争わせてしまった自分の心を、静かに見つめ直す。

そうして自分を省みる時間を重ねていくことが、平和への確かな一歩になるのだと思います。

南無阿弥陀仏

令和8年 棚経の日程

8月に入ると、富士富士宮地区はお盆の本番を迎えます。
毎年、ご先祖様をお迎えするため仏壇での回向を行っております。
今年も上記の日程表の通り、それぞれのお家にお参りさせていただく予定です。
ご都合が悪い場合はご一報いただければ幸いです。

僧侶が棚経にお参りに伺った際は、どうぞご一緒にお参りください。
お十念だけでも結構です。皆様の声がご先祖様にとっても何よりの供養となると思います。

南無阿弥陀仏

参道舗装工事及び駐車場の拡張が終わりました

7月8日から始まった参道の舗装工事ですが、すでに終わり、西側からも駐車場に入れるようになりました。また、今回、参道に隣接する西側の土地を舗装し駐車場を拡張いたしました。

工事中は何かとご不便をおかけしたことと思います。ご理解ご協力に感謝申し上げます。

アスファルト舗装した参道は一見すると公道のように見えるかもしれませんが、あくまでもお寺の私道(参道)です。もしもの時に駐車できるよう、こちらにも駐車の目安となる線を引いてあります。

おかげさまで今回の工事で25台分の駐車スペースが確保できました。お盆やお十夜の時期は駐車場が混雑しますが、これでよりいっそうお参りしやすくなるのではないかと思います。

皆様どうぞ安全運転でお参りください。

合掌

夏の農園部の活動

夏の日差しを浴びて雑草がすくすくと育ってしまいました。この雑草を何とかしなければということで、農園部の皆さんと草取りをいたしました。

農園部は「富士市若者相談窓口 ココ☆カラ」とつながる若者たちと一緒に作った団体です。就労を目指す若者たちの社会参加の一助になればと思い、6年ほど前から飛び地境内を農園にし、活動に取り組んでいます。

こちらが助けるどころか、助けられてばかり。休み休みの作業とはいえ、暑い中参加してくれた若者たちには本当に感謝です。

ふと見ると、雑草に負けず里芋が大きく育ってきました。

秋の収穫が楽しみです。

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※本活動は、公益財団法人浄土宗ともいき財団の助成を受けています。

中島地区子育て地蔵尊の祭礼

7月18日、中島地区の子育て地蔵尊の祭礼にて法要をおつとめしました。

今年は子どもの数が少なくなったため神輿はなく祭礼のみとなりましたが、炎天下の中、区長さんをはじめとする地域の方々やお子さんが参加くださり、無事お勤めすることができました。

この地蔵尊の祭礼は、篤信の檀家様によって昭和6年(1931年)この地を当山の境内地としてご寄進いただいたことに端を発します。以来、95年にわたって連綿と受け継がれてまいしました。

その頃の法源寺はというと先々代が住職を務めていた頃でしょう。その後、先代・功旭上人に引き継がれ、現住職・裕功上人に引き継がれ、そして私と、四代にわたって地域の安寧と子供の成長を祈願する法要をつとめてまいりました。きっと、この日お参りの地域の古老の方々も子どもの頃から参加していたに違いありません。

この日は梅雨明け前とはいえ地獄のような暑さでしたので、法話では地獄とお地蔵様の関係について以下のようなお話をいたしました。

地獄といえば閻魔大王を思い浮かべる人も多いでしょう。人が亡くなると、まず奪衣婆に服を脱がされ、その服の重さで生前の罪の重さを計られます。木の枝にかけてそのしなり具合を見るのですが、罪が重い人ほど枝が下までしなるというわけです。

この罪の重さにより、川を渡る場所が決まりました。罪深い者は深く流れの急なところを泳いで、罪が軽い者は浅瀬を歩いて、そして、罪がほとんどない者は橋を使って向こう岸へ渡ります。このわたる場所が三か所あることからあの世とこの世を分ける川を「三途の川」といったのです。

川を渡ると、極楽に行くか地獄に行くか、閻魔大王の裁きが待っています。浄玻璃の鏡に姿を映すと、隠してきた悪事も露わになってしまいます。一切ごまかしがきかないのです。そうして生前の罪を吟味し、私たちを裁くのです。

さて、『地蔵十王経』というお経には、この閻魔大王は地蔵菩薩の化身であると示されています。なんと実はこの閻魔様、本当の姿はお地蔵様だというのです。意外ですよね。

人が亡くなると七日ごと、初七日、二七日、三七日・・・と供養をして(七本塔婆を裏返していく)と聞いたことがあるでしょう。実はその七日ごとに私たちは裁きを受け、次のステージへと進んでいくのです。そして、七七日(四十九日)は次の生が決まるとされています。

閻魔大王が登場するのは五七日。地方によっては葬儀の後に、続いて三十五日法要を執り行うところもあるようです。生きているものが功徳を積み、その功徳を亡き人に振り向けることで罪障消滅をお願いするというわけですね。

しかし、閻魔様は私たちを地獄に落としたいわけではありません。できることなら、これを機縁に仏道に心を寄せてほしい、極楽浄土に行ってほしいと思っています。そのためあんなに厳しいお顔でいらっしゃるのです。なんだか、部活動の怖い監督みたいな感じですね。

でも、閻魔大王の本当のお姿がお地蔵様だと聞くと、少し安心しませんか。あんなに恐ろしいお顔をなさっているのは、私たちを懲らしめたいからではなく、なんとか仏様の道に引き戻したいという、厳しい愛情の表れだったのです。

お地蔵様は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道すべてを巡り、そこで苦しむ者を一人残らず救い上げるまでは、ご自身は仏にならないという誓いを立てられました。とりわけ最も苦しみ深い地獄にまで、自ら出向いて救ってくださる。そういう仏さまがこの地を長らく守って下さったことともに感謝し、これからも大切にお祀りしていきましょう。

こうした伝統ある行事が連綿と受け継がれていくお手伝いをさせていただいたことにありがたく思いました。

南無地蔵尊

参道整備のご案内

7月8日より、旧東海道からお寺に向かう参道の舗装工事が始まりました。これにともない、これまで西側から駐車場に入る入り口を封鎖しております。工事は7月下旬には出入りが可能になると思いますが、しばらくこちらから侵入することはできません。法源寺へお越しの際は、東側の入り口から駐車場にお入りください。

また、参道に隣接する西側の空き地(寺院側半分)に駐車場を設けることとなりました。こちらも今月中には完成予定です。例年お盆の時期は駐車場が混雑しますが、駐車可能台数が増えますので、お車での参拝がいっそう便利になるかと思います。

工事の間はご不便をおかけしますが、ご理解ご協力の程どうぞよろしくお願いいたします。

【7月の言葉】思い 思われ 手を合わす

私たちが手を合わせ、極楽浄土の阿弥陀さまや
ご先祖さまを思うとき、その方々も私たちを思ってくださるのです。
When you place your palms together and think of those who have passed, they are watching over you.
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浄土宗月訓カレンダーの7月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。

これは大正時代末期から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人、金子みすゞの詩「こだまでしょうか」の前半です。東日本大震災の後、テレビで繰り返し流れていたのでそれを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
この詩はこう続きます。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

思えば思われるという言葉がありますが、優しい言葉をかければ優しい言葉が返ってくる、冷たい態度を示せば冷たい態度が返ってくる、そうした人と人との関係性を描いた詩です。

法然上人が師と仰いだ唐の善導大師は『観無量寿経疏』の中で、「彼此の三業あい捨離せず」(彼此三業不相捨離)と言っています。

彼(ひ)とは阿弥陀如来のこと、此(し)とは我々のこと、三業とは身体、言葉、心の三つの行いのことを言います。つまり、私たちの行いや言葉、思いを見聞きし受け止めており、我々が阿弥陀仏のことを想い続ければ、阿弥陀仏もまた私たちのことを想い続けてくださるということです。

これは単なる比喩ではありません。

私たちがお念仏を称え、阿弥陀仏を想うとき、その声は空に消えるのではなく、必ず聞き届けられ、応えてくださいます。呼べば、必ず返ってくる。それは、ご先祖との関係にも通じるものです。

お盆に手を合わせ、亡き人の名を呼ぶとき、返事は聞こえません。けれども、こだまが山に向かって放った声を必ず返すように、その思いは一方通行では終わりません。極楽浄土からご先祖もまた、こちらを見つめ、私たちのことを想ってくださっています。

「もう会えないから」と心を閉ざしてしまえば、その思いもそこで止まってしまいます。しかし、手を合わせ、語りかけ続ける限り、その思いは必ず届き、そしてまた返ってくるのです。

思い 思われ 手を合わす

呼べば応え、想えば想われる。それは阿弥陀さまとの関係であり、ご先祖との関係でもあります。7月に入り、当山でもそろそろお盆の準備が始まります。思うだけでなく手を合わすという行為を、手を合わすだけでなく思いを込めるという意識を大切にお過ごしいただければ幸いです。

南無阿弥陀仏

ジャガイモの収穫

6月11日(木)、飛び地境内の畑でジャガイモ掘りをしました。

法源寺では2021年に農園部を立ち上げ、不登校・ひきこもりの若者を支援するNPO若者相談窓口「ココ☆カラ」さんの力を借り、就労をめざす若者たちが社会体験を積む場として一緒に活動してきました。これまで10代から30代まで、さまざまな若者が参加してくれました。

この日は3月初旬に植えたジャガイモの収穫です。今年はキタアカリを植えましたが、出来はどうでしょうか? マルチをはがして、土をほぐすと、大きなジャガイモがゴロゴロ出てきました。今年も大豊作で、ご近所さんにもたくさんおすそ分けすることができました。力仕事でひと汗かいた後はみんなでアイスを食べ、お互いに労をねぎらいます。

この日は5人の若者が参加してくれました。それぞれにたくさんジャガイモが入った袋を持ち帰り、みんな満面の笑顔です。穫れたジャガイモは本尊様にもお供えしました。

こうやって仏様に見守られながら活動が続いてきます。
身近に気になるお子さん、若者がいらしたらぜひお声かけ下さい。

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※本活動は、公益財団法人浄土宗ともいき財団の助成を受けています。

法源寺第二十三世内室 四十九日法要

6月7日、法源寺第二十三世髙瀨功旭上人 内室 髙瀨美智枝の四十九日法要(満中陰法要)を親族のみで行いました。先代内室には子が2人、孫が6人、ひ孫が11人います。それぞれの伴侶を合わせると、親族のみといっても総勢27名でのにぎやかな法要となりました。

当山のある地域では写真にあるような七本塔婆を用意し、七日ごとの供養が終わるたびに裏返していきます。当日は立ち日(命日)からすると六七日法要にあたりますが、皆がそろうこの日に七七日(満中陰)法要を営みました。

雨が心配される天候でしたが、納骨まではなんとか降らず、無事お勤めすることができました。納骨後は、お斎の席があり、先代内室の写真を見ながら思い出話に花を咲かせました。

こういう機会を大切にしていきたいと思います。

南無阿弥陀仏

【6月の言葉】慈悲の雨 心潤す

雨が大地をうるおすように、仏様の慈悲の心は
あらゆる人々の注がれています。
それに気づくとき、私たちの心も満たされるのです。
Amida Buddha vowed to save all beings.
Remembering this brings serenity to your heart.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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6月といえば梅雨の季節。しかし、雨がなかなか降らず、空梅雨気味の日々が続いています。東海地方の梅雨入りはまだ先になりそうです。

当山には不登校・引きこもりの若者を支援するNPOココ☆カラさんと一緒に運営する農園があり、境内でじゃがいもや夏野菜を育てています。この時期、作物の成長には水が欠かせません。雨が降らない日が続くと、土はみるみるうちに乾いてしまいます。先日、植え付けたサツマイモのツルもこの暑さと水不足で何本か干からびてしまいました。


しかし、梅雨入りしたらしたで、しとしとと続く雨に、今度は水のやりすぎを心配してしまいます。実が割れてしまわないか、病気にかからないかなど、あれだけ欲していた恵みの雨が、今度は心配のタネとして感じられます。人の心とは、つくづく勝手なものですね。

自然は人の都合で「ほどよくちょうど」とはなりませんが、田んぼの稲も、畑の野菜も、庭の草花も、何一つ育ちません。雨は、生きとし生けるものを養う、大切な恵みなのです。

「慈悲」という言葉は、サンスクリット語の「マイトリー(慈)」と「カルナー(悲)」に由来します。「慈」とは楽しみを与えること、「悲」とは苦しみを取り除くこと。この二つが合わさって「慈悲」という言葉になります。

仏さまの慈悲は、まさにこの雨のようなものです。

「慈悲」という言葉は、サンスクリット語の「マイトリー(慈)」と「カルナー(悲)」に由来します。「慈」とは楽しみを与えること、「悲」とは苦しみを取り除くこと。この二つが合わさって「慈悲」という言葉になります。
仏さまの慈悲は、まさにこの雨のようなものです。

雨は、豊かな庭にも、乾いた荒れ地にも、分け隔てなく降り注ぎます。大人にも子供にも、怒りっぽい人にも、優しい人にも、勉強が得意な人にも、スポーツが得意な人にも、楽しい気分の人にも、悲しい気分の人にも、すべての人々の上に平等に。

法然上人は、浄土宗を開かれたとき、念仏の教えを誰もが受け取れるものとして広められました。修行を積んだ僧侶だけでなく、農民も、商人も、武士も、老いた人も、幼い子も、どんな人でも「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることで救われる、と説かれました。まさに慈悲の雨は、万人の上に降り注ぐのです。

ところで、雨が恵みとして植物に吸収されるためには、そもそも大地が潤いを受け入れる状態でなければなりません。カチカチに固まった土には、雨水がうまく染み込まず、表面を流れてしまいます。心も同じで、疑いや頑なさでガードを固めてしまうと、せっかくの慈悲の雨も心の奥まで届かないことがあります。

忙しさや、悲しみ、人間関係の疲れで、私たちの心はついつい固くなってしまいます。そんなとき、手を合わせてお念仏を称えてみてください。

声に出してお念仏を称えることは、固まった心をほぐす一つのきっかけになります。仏さまの慈悲の雨が、少しずつ心に染み渡っていくのを感じることができるかもしれません。

慈悲の雨 心潤す

私たちの心には、今日も静かに、慈悲の雨が降り注いでいます。
その恵みを受け取れるよう、心を柔らかく耕しましょう。

南無阿弥陀仏



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