【11月の言葉】共に願い 共に生きる

知る、知らずにかかわらず多くのつながりによって生きている私たち。同じくお浄土へと歩む者同士、支え合う心を大切に過ごしていきたいですね。
Let’s us support each other for a better and happier life.
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浄土宗月訓カレンダーの11月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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今年は法然上人が浄土宗を開いて850年目の節目の年にあたります。
法然上人が浄土宗を開くにあたって多大な影響を受けたのが善導大師というお坊さんです。

善導大師は中国唐代初期に活躍した阿弥陀仏信仰者で、法然上人が生まれる500年ほど前に活躍した僧侶です。当然、直接会ったことはありませんが、法然上人は善導大師が遺した書物に大きな影響を受け、「阿弥陀如来の化身」と評するほど、絶大な信頼を寄せています。

さて、その善導大師の著した『往生礼讃』には「願共諸衆生 往生安楽国」という一説があります。意味は「もろもろの衆生とともに安楽国(極楽浄土)に往生することを願う」というものです。

往生とはってまれること、すなわち、共に生まれることを共に願うのがこの偈文です。

大正から昭和にかけて活躍した浄土宗の僧侶に(しい)()(べん)(きょう)というお坊さんがいます。仏教学者であり、大正大学の学長や大本山増上寺の御法主も務めたほか、第1回普通選挙(1928年)に立候補し当選すると、その後、衆議院議員を3期も務めました。近代浄土宗を代表する僧侶ですが、仏教を社会生活の中に生かす「共生(ともいき)運動」を広めたことでも知られています。

椎尾大僧正は、いまあるすべてのいのちの連綿とした繫がりを大切にしたいという考えのもと、「共生」を「ともいき」と呼びました。「共に生まれる」だけでなく「共に生きる」こと、過去、現在、未来の命のつながりだけでなく、現世における人と人、人と生き物など、命のつながりに着目したのです。

死んだら終わりではない死生観は浄土教の大きな特徴です。

共に願い 共に生きる

「また会えるね」「また会おうね」極楽での再会を願い、そのために今をどう生きるのか。「また会いたい」とお互いに思えるようにするために、どう生きるのか。

「ともいき」には、今だけ、ここだけ、自分だけの価値観とは全く違う、いのちのつながりの中で自分をとらえようとする哲学が感じられます。

大切な人のことを願い、大切な人と共に生きるには何が大事でしょう?

秋も深まり夜が長くなってきました。ゆっくり考える時間はありそうです。

南無阿弥陀仏

吉水先生ご法話「真の佛教徒とならん」

先日の十夜法要ならびに開宗850年慶讃法要へのご参加ありがとうございました。

当日ご参加できなかった方や遠方の方、はては同じ浄土宗の僧侶の方々から、吉水上人のご法話をぜひ聞きたいとの声を頂戴いたしました。
そこで記録用に録画したものを公開してよいか吉水上人にお願いしましたところ、ご快諾いただきましたので、多くの方にお聞きいただければ幸いです。

本当に素晴らしいご法話です。

南無阿弥陀仏

【吉水岳彦(よしみずがくげん)上人プロフィール】
1978年生まれ。2009年に若手僧侶有志と「社会慈業委員会 ひとさじの会」を発足。以来、ホームレス状態にある人や身寄りのない人の葬送支縁、浅草山谷・上野地域における炊き出し夜回り、東日本大震災被災地支縁に取り組んできた。一方、2016年には病院のスピリチュアルケアワーカーとしての活動を開始。2017年に、自坊に「こども極楽堂」を開設し、子どもの居場所支縁を行う。現在、浄土宗光照院住職、大本山増上寺布教師、ひとさじの会事務局長、大正大学非常勤講師、淑徳大学兼任講師、東京慈恵医科大学病院非常勤講師。公益財団法人仏教伝道協会 第58回仏教伝道文化賞・沼田奨励賞 受賞。

令和6年十夜法要並びに開宗850年慶讃法要を行いました

10月14日(月・祝)、当山の最大行事である十夜法要を厳修いたしました。今年は法然上人が浄土宗を開いてから850年の節目の年にあたりますので、十夜法要と併せて開宗850年慶讃法要も執り行いました。

法要後のご法話は、東京教区光照院住職の吉水岳彦上人をお招きし、「真の佛教徒とならん」と題したお話をいただきました。

吉水上人は、2009年、生活困窮者支援団体「ひとさじの会」を立ち上げ、現在も事務局長として、東京山谷地域の身寄りのない方々の支援を行っています。そうした活動を通じた体験談から始まり、どんなに至らない私たちでも救っていただける阿弥陀如来さまのお慈悲の心をありがたく受け止め、念仏の生活を送ることこそ本当の仏教徒であることをお話しくださいました。

たねかんがごとし。かまえて善人ぜんにんにして、しかも念仏ねんぶつしゅすべし。これを、真実しんじつ仏教ぶっきょうしたがものというなり。(随順仏教『念仏往生義』)

雑草だらけの畑では、よい種をまいてもなかなか良い作物は実らないでしょう。善い行いをして(あえて悪いことをしないで)、私たち自身の身を正しく保ち、そのうえで往生の種となる念仏を一生懸命となえること。これこそが誠の仏教徒であるということです。

法要後には、「最後のお十念で胸がジンと熱くなった」「素晴らしいお話で孫を連れてくればよかった」とのお声をいただきました。また、「その昔、戦災孤児を見ても何もできなかった。なんとかそんな思いを形にしたい」といって、ひとさじの会にご寄付くださる方もいらっしゃいました。さらには、この法話を聞くために焼津からお見えになった檀信徒以外の方もいらっしゃいました。

当日お見えになった方は50名ほどですが、みな一様に法悦に触れ、心豊かに生きる糧をいただいたのではないかと思います。

このようにして、おかげさまで開宗850年を祝うのに相応しい十夜法要をお勤めすることができました。開催にあたってお力添えを賜った総代、世話人の皆様、ご参加のみなさまに、あらためて御礼申し上げます。

南無阿弥陀仏

サツマイモの収穫祭

法源寺では飛び地境内を開墾し、農園部の活動を行っています。この農園活動には、富士市就労支援ネットワーク「ココ☆カラ」とつながっている若者たちが参加し、就労を目指す若者たちの社会体験の場としても活用されています。そんな農園で育てたサツマイモが獲れごろになったので、近隣の子どもたちに声をかけ収穫祭を行いました。

いつも農園を手伝ってくれる若者たちは今日は子どもたちのサポート役として参加してくれました。マルチをはがしたり、掘りやすくするために畑をほぐしたり、おかげで子どもたちも楽しくイモ掘りをすることができました。

収穫祭の日は小雨が降ったり止んだりの不安定な天気でしたがサツマイモは豊作で、大きな紅はるかがたくさん穫れました。スーパーで売っているサツマイモの倍はあるでしょうか。小さい子どもが持つとその大きさがよくわかりますね。大きなお芋を掘り当てる様子はまるで宝探しのよう。みんな自然と笑顔になっていました。

収穫後は本尊様にみんなでお参り。豊作のありがとうと来年もよろしくねの気持ちで手を合わせました。

このサツマイモ、豊作でしたので、十夜法要にお参りに来た皆さんにもおすそ分けをしたいと思います。10月14日はぜひお参りください。

南無阿弥陀仏

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※本活動は、公益財団法人浄土宗ともいき財団の助成を受けています。

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令和6年十夜法要ご案内

今年もお十夜の季節がやってまいりました。

法源寺を開基した観譽祐崇上人は、室町時代、浄土宗に十夜法要の勅許を得た高僧です。よって当山では、十夜法要を最も由緒ある年中行事として500年以上にわたって継承してまいりました。

今年は法然上人が浄土宗を開いてから850年の節目の年にあたります。そこで十夜法要と併せて開宗850年慶讃法要を下記要領にて厳修いたします。

13:00 受付開始
14:00 法要開始
14:50 法話「真の佛教徒とならん」吉水岳彦上人
15:50 終了予定

法要後には東京光照院住職の吉水岳彦上人をお招きし、ご法話をいただきます。吉水師はNHK「こころの時代」にもとりあげられた念仏実践と社会実践を車の両輪の如く大切に行われている、現代の聖(ひじり)です。

信仰をもって生きるとはどういうことか、仏様の平等の救いを実践できぬもどかしさを抱えながら社会とどう向き合って生きていくのか、混沌とした現代社会だからこそ、私たちの心に響くお話であることは間違いありません。

どうぞお誘いあわせのうえ、ぜひご参加ください。

南無阿弥陀仏

【10月の言葉】同じ月を眺めている

阿弥陀さまはすべての人に慈悲の光を注いでくださいます。
月は場所によって見え方が違っても等しく私たちを照らしているように。
The moon may look different depending on where you are, but it shines down equally on us all.
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浄土宗月訓カレンダーの10月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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つきかげのいたらぬ里はなけれども
ながむる人の心にぞすむ

浄土宗の檀信徒であれば、この和歌を一度は耳にしたことがあるでしょう。
これは浄土宗を開かれた法然上人が詠まれた歌といわれています。

その意味は、「月の光が照らさないところはありませんが、月を眺める人の心にこそ、月の光が澄み渡るのです」というものです。

ここでいう、月の光とは阿弥陀様のお救いの光明のこと。仏さまは皆を救おう救おうと思ってその光で私たちを分け隔てなく照らしてくださいますが、その光源である阿弥陀様の方向を見なければ、つまり、その教えに心を向けなければ、救いの光を受け損ねることになります。

法然上人はまたこういう御歌も詠まれています。

露の身はここかしこにて消えぬとも
こころは同じ花のうてなぞ

この歌は「私たちの命は、露のようにはかなく、いつ尽きるとも限りませんが、念仏を称える者は必ず極楽浄土に往生し、蓮台(=うてな)で再び会うことができますよ」という意味です。

法然上人が活躍された時代、念仏だけで救われるという教えは、厳しい修行こそがさとりへの道であるとする既存の仏教界から大いに批判を受けました。とくに、比叡山や興福寺などは朝廷に働きかけ、念仏の教えを止めさせることを要求していました。

弟子の咎もあり、その責任を取らされる形で法然上人は四国の土佐へ流されることになりましたが(実際は讃岐で止め置かれました)、上人に深く帰依していた先の関白・九条兼(くじょうかね)(ざね)公は上人との別れを悲しみ、もう今生では二度と会えないかもしれないと嘆きの手紙を送りました。これに対する法然上人の御返事が先ほどの御歌です。

同じ月を眺めている

スマホひとつで相手の声も聞け、姿も見られる現代社会では、会えない寂しさを紛らわす術も随分変わってきたことでしょう。しかし、同じ空の下で、同じ景色を見ている、同じ月を眺めているという行為を共有することで、共同性を感じることはできます。

この場合の「同じ月を眺めている」とは、阿弥陀様の教えに心を向けるということ。

極楽浄土は大切な人、親しい人との再会が約束された場所。阿弥陀仏に心を向け、その浄土に救い取られることで、再び会うことができます。

法然上人と九条兼実公、讃岐と京都、距離は離れていてもふたりは同じ月を眺め極楽浄土での再会を願っていたに違いありません。

南無阿弥陀仏

秋彼岸信行会をおつとめしました

9月22日(日)、秋の彼岸の中日に信行会を行いました。ずいぶん朝夕は涼しくなってきたとはいえ、日中はまだまだ日差しも暑い9月。先月取り付けたエアコンが今回も活躍してくれました。快適な本堂でお勤めができたこと、ありがたく思います。

さて、彼岸は、サンスクリット語でパーラミータ(到彼岸)という言葉に由来します。これを漢字にあてたものが「波羅蜜」です。京都にある六波羅蜜寺の「波羅蜜」です。

六波羅蜜とは、布施(執着を捨てる)・持戒(悪を行わない)・忍辱(我慢する)・精進(努力する)・禅定(雑念を捨て、集中する)・智慧(ありのままにとらえ、真理を見極める)の六つの実践徳目のことを言い、これを身に付けることができればさとりが開けると言われています。

彼岸とは、本来こうしたさとりの境地を目指して六波羅蜜の仏道修行に励む期間をいいます。彼岸は中日を挟んで前後3日ずつありますから、一日ごとにこれら実践を意識し過ごすことで、よりさとりの世界に近づけることでしょう。

さて、彼岸の中日である秋分の日は、昼と夜の長さが等しくなる日、そして一年のうちで太陽が真西に沈む日でもあります。沈む夕日の方角には、阿弥陀如来の極楽浄土、まさにさとりの世界があるといわれています。

極楽浄土は先立った方々がいらっしゃる場所。ご先祖様を思い浮かべともに手を合わせる信行会となりました。

法要後には知恩院布教師でもある高橋明功上人より、ご法話として鎌倉時代の武将・熊谷直実が法然上人に弟子入りし、法力坊蓮生と名乗り念仏の行者となった話をしていただきました。

罪悪生死の凡夫である自分が救われるのは念仏しかないと、そのシンプルな教えに身を寄せた熊谷直実の胸の内を熱く語ってくださり、誰もが救われる念仏の尊さを改めて感じることができました。

どんな人でも救われる道がある、大切な人とまた会える浄土がある、そのようなありがたい浄土教の教えに触れる一日となりました。

南無阿弥陀仏

静岡教区檀信徒大会の開催

9月3日(火)、伊東市観光会館にて第53回静岡教区檀信徒大会が開催されました。

今回は浄土宗開宗850年記念大会として、大本山増上寺より小澤憲珠大僧正台下のご巡教を賜り、大変にぎやかに華々しく執り行われました。

小澤台下は開白法要でお導師をお勤めいただいたのち、念仏の実践の大切さを説かれました。そして、以下に念仏を称えやすい環境を作るかが大事だというお話もされました。

いつでもどこでもできる行だからこそ、つい後回しになってしまいがちです。しかし、こうした簡単な行を法然上人が世に広めたのは、仏縁に触れがたい多くの人を救わんがためでした。だからこそ、とにかく称えることの大切さを説いたのですね。

第三部では、ご詠歌、声明、雅楽などをBGMに阿弥陀仏の慈悲と救済について布教師の方々がかわるがわる法話をしてくださいました。法話というと語りだけで聞かせるというイメージが強いのですが、こうして、視覚や聴覚に訴えながら法を説くことで、聴衆は一段とひきこまれていたように思います。

当日は、あいにくの天気でしたが、県内各地より大勢の檀信徒の方々が一堂に会し、僧俗ともどもに法悦に触れる一日となりました。

南無阿弥陀仏

【9月の言葉】西の彼方の確かな場所

お彼岸の中日には夕日が真西に沈みます。
その向こう、西の彼方にある極楽浄土は、
今は亡き大切な方とのかならず再会がかなうところです。
On the other side of the western horizon lies the Pure Land.
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浄土宗月訓カレンダーの9月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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日中はいまだ暑い日がありますが、朝夕の風はずいぶん秋めいてきました。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる

平安時代の歌人、藤原敏行は古今和歌集にこのような和歌を残しています。ここには、視覚ではまだとらえられないものの、聴覚や触覚などでとらえられた秋の訪れが豊かに表現されています。古来から、人はこうして、目に見えるものだけでなく、目に見えないものに気を配ってきました。むしろ、見えないところにこそ大事なものがあるととらえていたのかもしれません。

春と秋とに訪れる彼岸は、それぞれ春分の日、秋分の日を中日として前後3日間ずつ、計7日間をその期間としています。いまでは、お墓参り、先祖供養を懇ろに行う期間とされていますが、彼岸とは、この世の世界である「()(がん)」に対して「さとりの世界」を意味する言葉で、本来は、そのさとりの世界に向かえるよう、六波羅蜜(ろくはらみつ)とよばれる仏道修行を行う期間とされていました。()()(みつ)はサンスクリット語の「パーラミター」の音を漢字にあてたもので、至彼岸、すなわち、さとりに至るための修行を意味します。

6つの修行は何かといいますと、

布施(ふせ)    互いに施しあう
持戒(じかい)    きまりを守る
忍辱(にんにく)    苦しいことに耐え忍ぶ
精進(しょうじん)  あきらめず怠らない
禅定(ぜんじょう)  静かな心で精神集中する
智慧(ちえ)    偏らない心で物事を正しく見る

というものです。彼岸は、中日を挟んで前後3日ずつありますから、一日ごとにこれら実践を意識し過ごすことで、よりさとりの世界に近づけることでしょう。

さて、彼岸の中日である春分の日、秋分の日は、昼と夜の長さが等しくなる日、そして一年のうちで太陽が真西に沈む日でもあります。沈む夕日の方角には、阿弥陀如来の極楽浄土があるといわれています。

阿弥陀様は迷い多き私たちを救ってくださる仏様。極楽浄土は、先立った方々がいらっしゃる場所。ですので、彼岸のこの時期は、西に沈む夕日を思い浮かべながら、「きっとあちらにいらっしゃる」と念じて手を合わせる機会にもなります。

西の彼方の確かな場所

極楽浄土やご先祖様は物理的な存在を確認できるわけではありません。物質主義的な価値観が幅を利かせる現世では、こうした見えないものに対してあまり意識を払わないことも多々あります。

しかし、確かにそこにある、確かにそこにいると信じて日々生きると、今だけ、ここだけ、自分だけではない、別の価値観で物事が見えるようになってきます。

お釈迦様は、すべてのものは相依(あいよ)り、相助(あいたす)け、相互に関係しあいながら存在すると説かれました。あらゆるものは相互に影響し合って存在し、なにひとつ単独で存在しえないという意味です。それは目に見えるものだけではありません。むしろ目に見えないものにこそ気を配り、自己との関係性を問い直してみてはいかがでしょうか。

もうすぐお彼岸ですね。みなさまが仏縁に触れる機会となれば幸いです。

南無阿弥陀仏

令和6年度 盂蘭盆会・新盆供養を行いました

今年も8月13日18時30分より、盂蘭盆会および新盆供養法要を行いました。

今年は本堂にエアコンが入りましたので、これまでとは違い快適な環境でのお勤めとなりました。導師や維那(お経の発声をする僧侶)の汗をぬぐう回数もぐっと減ったように思います。おかげさまで、新盆家、一般檀信徒あわせて50名ほどのご参加をいただき、皆さんと一緒におつとめすることができました。

お盆は「盂蘭盆」(うらぼん)の略語といわれています。盂蘭盆はサンスクリット語の「ウランバナ」の音を漢字にあてたもので、もともとは「逆さ吊り」という意味です。富士・富士宮地区では8月13日から16日がお盆の時期にあたり、仏壇をきれいにし、僧侶による棚経を受け、ご先祖様をお迎えする準備を行います(8月盆と7月盆の違いについては【こちら】をご覧ください)。

今日のお盆の由来が記されている『盂蘭盆経』には、以下の様な逸話が説かれています。

お釈迦様の弟子のひとりに、神通力を持つ目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がいました。ある日、亡き母がどうしているかと、神通力を使って母親の姿を探したところ、餓鬼道に堕ち、飢えと渇きに苦しむ母親の姿が見えました。神通力で食べ物や飲み物を届けようとしますが、母親の元に届く前に火に包まれてしまい、母親を助けることはできません。何とか救いたいと願った目連尊者は、師匠であるお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は、雨期に行われる修行を終えた修行僧であればその徳をもって母親を救えるかもしれない、したがって彼らに食べ物や飲み物をささげるよう目連尊者に告げました。そして、修行僧たちにもまた、この施しを受ける際には、施主家の七代の父母のために祈りを捧げるようにと伝えました。目連尊者はその通りに修行僧たちを供養し、その功徳によって目連尊者の母親は餓鬼道から救われました。

この逸話をもとに、当山では新盆家からの志納で飲み物を用意し、参加者にお配りしています。また、新盆家の皆様には法要前にお集まりいただき、袋詰めの作業を手伝っていただきました。

供養のための施しはまさに目連尊者のごとしです。新たにお盆を迎える一切の精霊はきっと極楽に救い摂られることでしょう。

暑い中、法要にご参加くださった皆様、お手伝いいただいた新盆家の皆様、誠にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

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