【8月の言葉】涼しさ奏でる鈴の音

暑い中に吹くひとときの涼風は、「極楽の余り風」とも
呼ばれます。頬をなでるやさしい風は、
ご先祖さまからのエールかもしれません。
On hot days in the summer, refreshing
breezes from the Pure Land come to cool us.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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暑い夏がやってきました。動いてなくても汗ばむ季節です。
日本では音で涼をとる風習がありました。軒下の風鈴はその最たる例です。
チリンという音がすれば、「あ、風が吹いた」と耳で感じ、風情も感じられますよね。
しかし、最近では、その暑さゆえ窓を閉め切ってエアコンで涼をとることの方が多いように思います。

さて、浄土三部経の一つである『阿弥陀経』では、美しい極楽浄土の様子が描かれています。あちらこちらにきらびやかな装飾が施され、さまざまな色をした蓮華が池に浮かんで咲きほこっています。絶えず美しい音楽が流れ、素晴らしい鳴き声の鳥が生息し時折さえずる、といった具合です。

その中に、「彼の仏の国土には微風吹動し、諸の宝行樹及び宝羅網微妙の音を出す。譬えば百千種の楽を同時に倶に作すが如し。是の音を聞く者は皆自然に念仏・念法・念僧の心を生ず」という一説があります。

簡単に現代語訳をすると以下のようになるでしょう。

極楽浄土で吹くそよ風がさまざまな宝でできた樹木や飾り具を動かすたびに、美しい音色をたてる。まるで百千もの楽器を一度に演奏したようで、この音色を聞く者は、自然と仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心が生まれる

酷暑の中、そよ風が吹き、涼を覚えれば、「あぁ、ありがたい」「あぁ、気持ちがいい」と感じることでしょう。「地獄に仏」とはまさにこのことですね。

でもひょっとしたらその風は、極楽浄土からのご先祖様のお便りなのかもしれません。うだる暑さで「大丈夫かい?」「無理してないかい?」という子孫を気遣う声なき声かもしれません。

涼しさ奏でる鈴の音

さて、まもなく棚経が始まります(日程は【こちら】から)。

檀信徒の皆様のお宅では、お仏壇の鈴(リン)の音が響くことでしょう。風鈴とは異なりますが、こちらもまた、ご先祖様をお迎えするために欠かせないものです。涼しい風を感じたら、ご先祖様のお便りだと思って、お仏壇の前で「お返事」をなさるとよいかもしれません。

どうぞ、鈴を打ち、十遍のお念仏をお唱えして、今年の夏のご報告をなさってください。

南無阿弥陀仏

【7月の言葉】当たり前と思うあやうさ

多くのつながりに支えられている日常。
当然と思っていると、
思わぬほころびにつながることも。
Be aware that every day consists of delicate balancing.
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浄土宗月訓カレンダーの7月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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「当たり前」の対義語は何でしょう?

「有り難い」です。めったにないという意味ですが、感謝を伝えるときに口にする「ありがとう」の語源でもあります。

そう、私たちは日常の生活がいつでも変わらずそこにあるものと思い漫然と過ごしています。ひとたび、病気になったり、怪我をしたりすると、健康でいることの有り難さをヒシと感じるわけですが、のど元過ぎれば何とやらで、身体が回復すれば元気でいることが当たり前と思い、また不摂生な生活に戻ってしまいます。

健康だけではありません。
こうして生を受け、今ここにあること自体も当たり前と思っています。

地球に生物は約175万種いるといわれています。そのうち、ほ乳類は6000種。数ある生き物の中で、ほ乳類に生まれてくることも大変ですが、ほ乳類の中で人間として生まれてくることはさらに大変です。単純に計算すれば6000分の1ですから、0.017%ということになります。

そう考えれば、まず人として生を受けること自体が極めて有り難いことであると気づくのではないでしょうか。

『華厳経』の中に、三帰依文と呼ばれる一説があります。お釈迦様の時代から、仏・法・僧に帰依する、すなわち仏道に入門しようと決意した弟子が唱える経文として知られています。

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし

この世に、人として生を受ける有り難さは先ほど述べた通りですが、人として生まれた中で仏教に巡り合える人はどのくらいでしょうか。現在の世界の人口は約79億人といわれています。世界の仏教徒人口は約5億人ですから、世界の総人口の6%ぐらいにあたります。

世界の仏教徒はスリランカ、タイ、ミャンマー、中国、韓国、台湾など日本以外にもいますが、日本だけでは8000万人くらいといわれています。79億分の8000万ですから、確率的には1%を若干超えるくらいです。

このなかで、浄土宗の教えに出会える人はどのくらいでしょうか…。さらに少なくなることは間違いありません。こう考えると、仏教、ましてや浄土宗の教えに出会えることもまた極めて有り難いことであると気づくでしょう。

こうして、希少な確率として人として生まれ、なかなか出会うことない仏教の教えに触れたのだから、この世でさとりを得るよう努力しなければ、次はいったいいつこのような機会に恵まれるだろうか。心から仏法僧に身を任せ、仏道修行に励みましょう。というのが『三帰依文』の趣旨です。

当たり前と思うあやうさ

仏教徒であること、菩提寺があること、先祖のお墓があること、どれも当たり前ではありません。そして、それらは自分一人でなしえたことではなく、先人たち、そして、周りの人たちとの縁によってもたらされた部分が大きくあるのではないでしょうか。

普段身近にあること、変わらないと思っていることに有り難味を感じることは少ないかもしれません。毎日とはいいませんが、たまにはその「当たり前」がどのように成り立っているのか、誰によって支えられているのか思いを巡らしてみると、物事に対して別の見方が出てくることでしょう。有り難味に気づくと、自然と感謝の念も湧き上がってきますよね。

まもなくお盆の季節がやってまいります。
みなさんがここにこうしている「有り難さ」を、ぜひご先祖様にもお伝えください。

南無阿弥陀仏

【6月の言葉】こころ耕す なむあみだぶつ

往生を願い、お念仏をとなえ続けるなかに、
阿弥陀さまや極楽浄土への想いは自然と育まれます。
Each time you chant nembutsu, your faith in Amida Buddha deepens.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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浄土宗では「なむあみだぶつ」ととなえることが大切と説きます。
「なむ」とは「帰依する」という意味で、わかりやすくいうと「お任せする」「お願いする」ということです。「あみだぶつ」とは阿弥陀仏のこと、すなわち、私たちを西方極楽浄土へ救い取って下さる如来さまのことです。つまり、「なむあみだぶつ」ととなえることは、「あみださまどうぞお願いします」という私たちの救いを求める願いを形(言葉)にして、阿弥陀さまに届けるものです。

今でこそ「念仏」といえば、この「なむあみだぶつ」と声に出してとなえることを指しますが、声に出すことを勧めたのは浄土宗を開いた法然上人で、それ以前は心に仏の姿を想い浮かべる観想念仏(かんそうねんぶつ)が主流でした。では、法然上人は、なぜ声に出す念仏を推奨したのでしょうか?

それは、いつでも、どこでも、だれでもできるからです。

観想念仏を行うには、まず思い浮かべる仏の姿を知っていなければいけません。それは、阿弥陀経などの経典に書かれていますが、経典を読んで理解できるのは、貴族や僧侶など一部の人だけでした。

そして、仏の姿を知っていても修行に集中できる環境がなければ実行することはできません。その日その日の暮らしにあくせくしている一般民衆にとって、日常を離れて精神集中できる場や時間を確保するのは難しいことでした。

法然上人自身は、比叡山で智慧第一の法然坊と呼ばれるほどの秀才でしたから、経典の内容も理解していたでしょう。また、比叡山は修行道場ですから、生活の糧の心配をせずに修行に打ち込むこともできたでしょう。しかし、観想念仏のみを往生の行としてしまえば、これを行えない一般の人々は、仏の救いに与れないことになってしまいます。ですので、「念じることは声に出すことと同じ」と解釈し、より簡単な声に出す念仏を勧めたのです。

さて、法然上人が亡くなる二日前に遺したとされる『一枚起請文』には、以下の一節が出てまいります。

ただし三心四修と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて、 往生するぞと思う内にこもり候なり。

三心(さんじん)とは、噓偽りの無い真の心(至誠心)、自身の至らなさを自覚し仏さまの救いを深く信じる心(深心)、極楽浄土へ往生したいと願う心(回向発願心)の三つの心のことを言います。四修(ししゅう)とは、仏さま対していの心を持つこと(恭敬修)、お念仏以外の諸行を修めないこと(無余修)、忘れずに念仏をとなえること(無間修)、念仏の教えに帰依(したら臨終のときまで念仏を怠らないこと(長時修)の四つの実践態度のことを言います。

つまり、念仏を漫然ととなえるだけでなく、こうした心構えや態度が必要だというのです。これはちょっと難しそうですね。でも大丈夫です。これらさえも、となえているうちに自然とそなわっていくんだというように説かれています。難しく考えずに、まずは実践せよ、ということですね。

こころ耕す なむあみだぶつ

ひとたびなむあみだぶつととなえると、私たちのこころは耕され、仏様のことや仏教のことを大事だと思える種が芽吹きやすくなります。「こころ耕す」とはそういう意味でしょう。

私たちは、何をするにも「これをするとどうなるのか」、「どのくらいすればいいのか」など頭で考え、メリットとコストを比べて功利的に行動をとりがちです。

しかし、やってみることで新たな気持ちが芽生えたり、心持ちが変わったりして、さらに私たちの行動に影響を与えることもしばしばあります。人生の豊かさは、コスパ(コストパフォーマンスの略)だけでは測れない、そうしたところにあるのではないでしょうか。

ぜひ、法事や墓参の際には、大きな声でなむあみだぶつとおとなえください。気持ちや行動に変化が現れるかもしれません。

南無阿弥陀仏

当たり前こそ有り難い

私は、毎朝、新幹線で東京の大学へ通っているのですが、最近、大勢の中学生が向いのホームに集まっている光景をしばしば目にします。そう、修学旅行です。

はるか20数年前、私の時もそうでしたが、富士市内の中学生はだいたい奈良、京都方面に向かうことがお決まりです。下りホームの壁には、「いってらっしゃい!」の掲示も。
しかし、こうした光景は実に4年ぶりです。

5月になり、新型コロナウイルスが感染症法上の第5類に移行して、ようやく社会生活も「日常」に戻ろうとしています。法事も遠方から親戚を呼び、大勢の参列者を集めて営む方も増えてきました。久しぶりの再会に、顔がほころび、話が弾んでいらっしゃる様子をうかがうにつけ、こうして集まることを待ち望んでいたのだなぁとしみじみ感じます。

そんな皆さんのお姿を拝見し、先日のご法事ではせっかくですからと記念写真を勧めてしまいました。次の法事の際には、その写真を眺めながら「ずいぶん大きくなったね」「すっかり年を取ったね」など、一層話に花が咲くことと思います。

修学旅行に行くこと、法事を営み人と会うこと、私たちはこれまで当たり前のように行ってきました。しかし、私たちの「当たり前」は、いとも簡単に崩れ去ることも経験しました。そして、何気ない日常の中で積み重ねている日々の行いは、とても有り難いものであったのだと気づくことができました。

悲しいかな、人は忘れてゆく生き物です。喉元過ぎれば熱さを忘れるという格言がありますが、ひとたび「当たり前」になってしまうと、またその有り難さを忘れてしまうものです。

当たり前だと思うと、なぜできないのか、どうして思い通りにならないのか、怒りや苛立ちを覚えることでしょう。仏教ではこれを(いかり)といい、(むさぼり)、(おろかさ)とともに様々な苦しみを生む根源的な煩悩として知られています。

自分の思い通りになるもの何ひとつない、さまざまな人の助け、その時の条件が整ってはじめてすべての物事は生じえるのだと思えれば、きっと「当たり前」の有り難さに気づくことができるでしょう。

忘れ行くのは、凡夫であるがゆえに仕方のないことかもしれません。しかし、しばらくは、今あることの有り難さを受け止め、感謝の日々を過ごしたいものです。

南無阿弥陀仏

令和5年度 岳陽組檀信徒総会開催

5月14日(日)、岳陽組檀信徒総会が法源寺会館にて行われました。

浄土宗ではおおよそ各県に一つの教区があり、教区の中に「組」という単位の地域ごとのグループがあります。岳陽組というのは、富士・富士宮・沼津にある13か寺の浄土宗寺院で構成されています。この檀信徒会は、檀信徒同士でおてつぎ奉仕団に参加したり、団参に行ったりと、横のつながりを持つ場となっています(先日の春の団参はこの檀信徒会の行事です)。

昨年から対面で開催されていましたが、今年は新型コロナウイルスも第5類に移行したこともあり、各寺院の総代さん、世話人さん方、総勢58名の参加をいただき、昨年よりも規模を大きくしての開催となりました。こうした集会が再開されるにつけ、コロナ禍がひと段落し、「日常」が戻ってきたのだと実感いたします。

この総会をもって、法源寺檀家総代の井出公治さまが2年間の会長の任期を終え、次の会長へとバトンを受け渡されました。コロナ禍に悩まされ、気苦労の多い2年間でしたが、辛抱強く岳陽組檀信徒会を守っていただいたと思います。お疲れさまでした。

総会後には、東京教区香念寺(葛飾区・亀有)の下村達郎住職をお招きし、「語り合いから生まれるともいきの輪 〜お寺での介護者カフェ活動〜」と題した講演をいただきました。

下村上人が住職を務める香念寺さまでは、浄土宗総合研究所のプロジェクトをきっかけに、2016年から介護の経験や思いを分かち合う「介護者の心のやすらぎカフェ」を開催されています。

現在、家族の介護をしている人(介護者)は全国で650万人を超えるといわれています。そして、突然始まり、いつ終わるともわからない介護の中で、「本当はこうしてあげたいのにできない自分がもどかしい」「親の介護に兄弟が協力してくれない」「ついキツくあたってしまう」など、さまざまな悩みや葛藤を抱えている介護者も少なくないそうです。

そうした心のうちを打ち明けたり、相談したりする場として、お寺を活用するという動きも浄土宗では広がってきています。大事なのはアドバイスすることではなく、心の声を受け止めるということ。今風にいえば、傾聴(けいちょう)と言い換えられるかもしれません。四苦でいう、老・病・死に向き合う、仏教者ならではの活動といえるでしょう。「話を聴く」とは簡単なように思えてなかなか難しいことですが、僧侶として大事にしたいことです。

経験に裏打ちされた下村上人のお話から、これからの社会に必要な「心休まる場」としての寺院の可能性を感じました。また、参加者のほとんどは高齢の方でしたので、介護の話も身近に感じられたはずです。きっと今日のお話は心に響いたのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏

【5月の言葉】ゆっくり休んで また動き出す

疲れたときは、ひと息つくことも大切。
心にも体にも英気を養い、また歩みはじめましょう。
When you are tired, take a rest. Then start forward afresh.
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浄土宗月訓カレンダーの5月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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今年のGWはどう過ごされますか?
カレンダー通りであれば5連休。うまく休みが取れれば最大9連休になるようです。コロナ禍明けのGWということもあり、遠くへ出かける人も多いのではないでしょうか。

新年度がはじまり、忙しい日々を過ごしている中で、この連休でようやく一息つけるという人もいるかもしれません。

出かけるにせよ、ゆっくり過ごすにせよ、休むことは大事なことです。

以前、海外で働く方とお話した際、「日本人は休むことは悪いことだと思っている。休みは職場に戻ってきたときに最高のパフォーマンスを出すために必要なものだから、休むことは全然悪いことじゃない」と言われたことがあります。
たしかに、それまでは「休んですみません」という気持ちになってしまっていましたが、この話を聞いてからは休むことに対するイメージが変わりました。

体力だって気力だって消耗するものです。疲れたときはゆっくり休んで、リフレッシュすることが大切です。そうでなければ、持っている力が十分に発揮できないですからね。

さて、お釈迦様は、さとりを開く前、過酷な修行を行っていたといわれています。断食しながらの厳しい修行で身はやつれ、骨と皮だけになるほどの苦行でした。しかし、どれだけ苦行を続けても、さとりに達することはできませんでした。

そんな折、近くの村に住むスジャータという娘が、衰弱したお釈迦様の身を案じ、乳粥を供物としてささげました。お釈迦様は、最初は断食行の最中だと断りましたが、思い直してその供養を受けることにしました。一緒にいた修行仲間は、その姿を見て「あぁシッダールタ(お釈迦様の名前)は、苦行から脱落した」と失望し、お釈迦様の元を離れました。

しかし、スジャータの供養を受け、川で沐浴をし、心身共にリフレッシュしたお釈迦さまは、菩提樹の下で坐禅を組み、瞑想を続け、さとりを開くことができたと伝わります。

お釈迦様は、休むことでこれまでのやり方を見直すことができ、結果として悟りを得ることができたのです。

ちなみに、この「スジャータ」、めいらくが販売するコーヒーミルクの名前にもなっていますが、乳粥をささげたスジャータの名前から来ています。

ゆっくり休んで また動き出す

私たちは「人に優しくしましょう」と教わりますが、「自分に優しくしましょう」とは教わりません。でも、自分を大切にできなければ、人を大切に扱うこともできないのではないでしょうか。場合によっては、自分だってこんなに頑張っているんだ、自分が無理してここまでできたのだから他人もできるはず、と厳しくあたってしまうこともあるかもしれません。

休むことで、気力や体力が回復し、心に余裕が生まれます。

心に余裕ができると、きっとまわりのこともよく見えるはず。

困っている人や無理している人の苦しさや辛さに気づくことができるでしょう。自分がいっぱいいっぱいでは、なかなかまわりを見ることも、ましてや手を差し出すこともままならないですからね。

優しい人になるためにも、まずは自分に優しくしましょう。

南無阿弥陀仏

春の団参に行ってきました

4月9日、コロナ禍もひと段落ということで、岳陽組檀信徒会の春の団参に行ってまいりました。

ちなみに、団参とは団体参拝のこと。いわば、寺社仏閣の参詣と行楽を兼ねたバス旅行です。今年の行き先は藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)と大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)でした。

大正大学の先生でもある長澤執事にお話をいただきました

箱根駅伝でもよく登場する藤沢の遊行寺は、正式には「(とう)沢山(たくさん) 無量光院(むりょうこういん) 清浄光寺(しょうじょうこうじ)」といいます。踊りながら念仏や和讃を唱える「踊り念仏」を全国に広めた一遍上人を開祖とする時宗の総本山として知られています。実は、この一遍上人は、法然上人の弟子・証空上人の孫弟子にあたり、浄土宗の教えを深く学んだことから、時宗と浄土宗は縁が深いのです。

額には「清浄光寺」の字が

一遍上人は、特定の寺にとどまらず全国を行脚し、踊り念仏や念仏札による民衆教化に努めたことから遊行上人と呼ばれています。ここから、時宗の法主(一番偉い僧侶)を遊行上人と呼び、遊行上人のいるお寺として、遊行寺の名称が使われるようになりました(実際に遊行寺を開かれたのは4代目の呑海上人です)。

阿夫利神社(下社)

大山阿夫利神社は、江戸時代多くの民衆の参詣を集めた「大山詣り」の地としても有名です(古典落語の演目にもありますね)。阿夫利神社の名称は、大山の別名・雨降り山に由来します。雨が降ることから、雨乞いや五穀豊穣の祈願の対象とされてきたそうです。

大山寺 ケーブルカーで途中下車するとすぐです

また、神仏習合の霊山と知られ、山の中腹には大山寺(おおやまでら)という真言宗の寺院もあります。ちなみに、この大山寺の山号も雨降山(あぶりさん)といいます。

お参りの後は、どれも美味しく見えてしまいます

バス降り場からケーブルカー乗り場までは「こま参道」といい、階段が連なるのぼり道。しかし、両脇にお土産物屋さんや食事処がならぶ、いわゆるお楽しみゾーンとなっています。こうして目を楽しませるものがあると、階段が続いていても苦ではありませんね(笑)

天候にも恵まれ、景色も大変きれいでした

急こう配のケーブルカーに乗り、阿夫利神社(下社)へ行くと、遠く相模湾まで見渡せる絶景が広がっていました。もちろん、下社までケーブルカーに乗らずに徒歩で登る(下りる)こともできます。この日は、天気も良かったので、多くのハイカーでにぎわっていました。

団参に参加された皆さんは、大山の階段に苦戦しながらも、それぞれに楽しんでおられる様子でした。寺社参詣を通じて、法話を聴き、楽しみながら体を動かすことで、身体も心も健康になることと思います。

これからも、こうした機会を設けてまいりたいと思いますので、ぜひご一緒に参りましょう。今回参加された方も、参加できなかった方も、多くの方のご参加をお待ちしております。

南無阿弥陀仏

【4月の言葉】未来は善き縁で開かれる

この季節にはさまざまな出会いがあり、
なかには善い方向へと導いてくれるものも。
一つひとつの出会い、大事にしたいですね。
Good encounters can lead you to a better future.
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浄土宗月訓カレンダーの4月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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春は別れの季節でもあり、出会いの季節でもあります。
新しい環境に身を置き、新たな交友が生まれる方もいるでしょう。
ライフステージの変化により故郷に戻り、旧友との再会を果たす方もいるでしょう。

仏教では縁起(えんぎ)という考え方があります。もともとは「因縁生起(いんねんしょうき)」という言葉ですが、私たち人間やすべての物事は、互いに関係しあって、また影響を与え合って存在しているという意味です。

もう少し詳しく言うと、因とはそれなくしては生じえない原因のこと、縁とは生じるための諸条件のことをいいます。例えば、花を咲かせるそもそも種を植えなければいけません。したがって、花にとっての因は種にあたります。しかし、種だけあれば花が咲くわけでもありません。適度な気温、日光、水など、眼を出し、根を張り、成長するための条件が必要です。この諸条件が縁となります。

私たちに置き換えてみれば、今ここにこうしているのは、父母あってこの世に生を受けたからにほかなりません。そうしてみれば、父や母は、まさに直接の原因です。一方、「私」というアイデンティティを持った人間が存在するのは、こんにちまで生きてきた中で、多くの人に出会い、感化され、学んだり、喜んだり、悲しんだり、悩んだりしてきたからです。先生、友達、兄弟姉妹、近所の人、さらには偉人や有名人など、直接話したり、その言葉に感銘を受けたり、経験や体験を通じて「私」という自己が形成されてきたのではないでしょうか。これらの方々(もちろん父母も含め)が、こんにちの私を私たらしめる条件(縁)ということになります。

また、これは一方的な関係ではありません。私たち自身もまた誰かの因となり、縁となりえます。私たちは、こうした相互の関係性の中で互いに支え合い、助け合って存在しているのです。

未来は善き縁で開かれる

きっとこの春の出会いの中で、新たなことに挑戦したり、これまで気づかなかったことに気づいたりして、新しい自分の可能性に触れることでしょう。そして新しい自分との出会いもまた、あなた自身を善き未来へと導く大きな原動力になるものと思います。

どうぞ人とのつながりを大事にお過ごしください。
何気ない日々の経験や体験を大切に受け止めてください。

わたしたちを未来へ導く善き縁は、きっとその中にちりばめられていることと思います。

南無阿弥陀仏

東日本大震災から12年

いわき市内の体育館での炊き出しの様子(2011.5.2)

今年も3.11の日を迎えました。

当時、大学院生だった私(副住職)は、福島県いわき市に行き、避難所で生活する被災された方々に温かい食事を提供するために、地元浄土宗青年会と一緒に炊き出しを行いました。避難所が閉鎖された後は、仮設住宅を訪れ、サロン活動などにも参加しました。

また、住職は石巻や陸前高田を訪問し、その惨状を目の当たりにして、慰霊の行脚を重ねてきました。

あれから12年。地震や津波で亡くなられた方にとっては13回忌を迎える日です。まだ行方不明のままの方もいらっしゃいます。いまだ故郷に帰れぬ方もいます。同じ日本に生まれた者として、自分に何ができるだろうかと考えさせられることばかりです。

最近のことですが、ある新聞にこんな短歌が掲載されていました。

「死にたいな」「僕もさ」「わかる」「頑張ろな」 落書き続く 仮設のトイレ

避難所の外に設けられた仮設トイレの壁に、誰ともなく悲しい胸の内を書き、どうしようもない辛い思いを吐き出した一言。それに呼応するような共感の言葉と、一緒に乗り越えていこうという激励の言葉。

直接言葉を交わしたわけではないけど、仮設のトイレという「伝言版」を通じて、目に見えぬ連帯が生まれた様子がありありと描かれています。

苦しいのは自分だけじゃない。辛いのは自分だけじゃない。やりきれない気持ちをみんな抱えている。だからこそ一緒に生きていこう。

筆舌に尽くしがたい困難に直面した時、苦しみを理解し、支え合おうという気持ちを持つ人がいるとわかるだけで、おおいに勇気づけれられることと思います。

あの時ほど、家族や仲間同士の絆が大事だと感じたことはないでしょう。

あの時の想いを忘れずに、日々を過ごしてまいりたいと思います。

南無阿弥陀仏 合掌

【3月の言葉】一つの言葉が励みとなる

あなたのさりげない一言が、誰かの支えになることも。
他人にかける言葉には気を使いたいですね。
A casual remark makes encourage others.
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浄土宗月訓カレンダーの3月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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みなさんは、まいったなぁというとき、何気ない誰かの一言で救われたという経験はありませんか。逆に、不用意に発した一言が誰かを傷つけてしまい、あんなこと言わなければ…と後悔したことはありませんか。

私たちが発する言葉は力を持っています。その力は、人を勇気づけるものにもなれば、人を傷つけるものにもなります。そのことをよくよく考えて、私たちは言葉を選ばなければいけません。

さて、仏教の修行の一つに「布施」があります。布施というと、「あぁ、お寺に収める寄付のことね」と思われるかもしれませんが、本来は貪りの心や、執着を離れるための行いのことを言います(お金はその一部に過ぎません)。

お金がなければ布施ができないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、『雑宝蔵経』という経典の中には、「無財の七施」(※)と呼ばれる布施行が説かれています。
その名の通り、財物がなくても他者に施すことができる行いのことを言いますが、その一つに「相手に柔らかい思いやりのある言葉をかける」というものがあります。難しい言葉では「言辞施ごんじせ」といいますが、別名「愛語施(あいごせ)」ともいいます。

なんだか字面は難しそうですが、いたってシンプルです。
辛そうな相手には、「どうしたの?」「何かあったの?」、悲しそうな相手には「大丈夫、そばにいるよ」、「力になるよ」、嬉しそうな相手には「よかったね」、「みんなも喜んでるよ」など、相手のことを慮って声掛けをすることです。

しかし、シンプルなことほどなかなかできないものです。ましてや、こちらの心に余裕がない時などは、他人のことより自分のことを優先に考えがち。相手の気持ちを推し量るどころか、どうしてこちらのことをわかってくれないのか!とつい突っかかってしまいます。

一つの言葉が励みとなる

あなたの言葉には力があります。ぜひ、その言葉を発する前に、投げかける相手のことを想像してみてください。言葉によって励まされた人は、きっとほかの人を励ます人になるでしょう。

人と人との間に優しい言葉があふれ、ともに励まし合う社会になれば、今よりももっと生きやすい世の中なると思いませんか。

ぜひ今日から実践していきましょう。

南無阿弥陀仏

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※無財の七施:誰でもいつでもできる布施行。以下の七つのことをいう。
眼施げんせ・・・相手を憎むことなく、好ましい眼差しで接すること。
和顔悦色施わげんえつじきせ・・・和やかな喜びの顔つきで接すること。
言辞施ごんじせ・・・相手に柔らかい思いやりのある言葉をかけてやること。
身施(しんせ)・・・相手を敬い、我が身を惜しむことなく、他に尽くしていくこと。
心施(しんせ)・・・善い心で相手の立場にたち心をかけていくこと。
床座施しょうざせ・・・相手に座席を設けたり、譲ったりすること。
房舎施ぼうしゃせ・・・自分の家を一夜の宿として提供すること。

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