令和8年度の十夜法要をおつとめしました

10月14日14時より、本堂にて十夜法要を厳修いたしました。

法源寺を開いた観譽祐崇上人は、鎌倉光明寺の第九世(9代目の住職)でもありましたが、浄土宗に十夜法要の勅許を得た僧侶でもありました(当時、十夜法要は勝手に行えなかったのです)。観譽祐崇上人は、室町時代に後土御門天皇の勅許を得て十夜法要行いました。以来、浄土宗寺院では毎年秋のこの時期に十夜法要が営まれます。観譽祐崇上人と縁の深い当山では最も由緒ある年中行事といえます。

この十夜法要は『無量寿経』の一節にある教えを実践したものです。そこには、「娑婆世界で十日十夜の間、善行を修めることは、仏の世界で千年にわたって善行に励むよりもすぐれている」と説かれています。

今年も総代、世話人さん方の運営協力のもと、大勢の檀信徒の皆様にお参りいただきました。

法要後は、東京都健康長寿医療センター研究所の枝広あや子先生から「お寺で健康!? 読経と口腔機能・呼吸機能の維持向上」と題して、声に出してお経を読むことがいかに体と心に良いかをお話しいただきました。

枝広先生は大正大学に勤める副住職とこの読経効果に関する研究を行っており、全国各地にある寺院を拠点に、読経を用いた健康プログラムを普及・推進しています(参考記事)。そうしたご縁もあり今回足をお運びいただきました。

日常語ではない音節を継続的に唱えることに口腔機能向上効果があり、巷ではパタカラ体操というものがあります。ただ、意味のない音節ですのであまり長続きしないという指摘もあります。読経であれば普段口にすることのない音節ですし、功徳も積むことができ心も豊かになるのでは、ということで研究が進められています。

また、人と人との交流が生まれる場所も精神的健康に大きくプラスに働くとのこと。お寺に足を運んで一緒にお経を読んでお話しすることが、実は私たちにとってとても良いことだとあらためて知ることができました。

やはり健康につながることにはみなさん興味津々の様子で、枝広先生のお話に釘付けでした。

お話の中では、南無阿弥陀仏と十遍となえるお十念も、通常は、4回となえ息継ぎをし、また4回、最後に2回という具合でおとなえしていますが、息継ぎせずに8回連続でおとなえすると呼吸機能にもよいのではないかという指摘もありました。

そこで、最後には皆さんと一緒に大きな声で8回+2回の十念をおとなえし、学んだことをすぐに実践する講演会となりました(笑)

ご参加くださった皆様、運営にご尽力くださった総代、世話人の皆様、ありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【10月の言葉】日々の努めは 先の安心

結果はすぐに出なくても、日々の積み重ねが大切。
勉強も仕事も、そしてお念仏もそれぞれが心の支えになり、やがてよい結果につながるものです。
Invest in the future every day and you will be ready for whatever tomorrow brings.
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浄土宗月訓カレンダーの10月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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読書の秋、スポーツの秋というように、秋は何かを行うのによい季節とされています。この機会に、資格の勉強や新しい習慣に挑戦しようという方もいらっしゃるでしょう。

ただ、勉強でも仕事でも、努力の成果はすぐには出ません。

英単語を毎日十個覚えても、翌週のテストの点が劇的に上がるわけではない。新人のころの地味な作業が、仕事の土台になっていたと気づくのは、何年も経ってからです。毎日の積み重ねは、その日のうちには報われにくい。だから、つい「どうせ変わらない」と思ってしまいます。

夏休みの宿題を最終日に慌てて片づけた記憶はありませんか? 人間は、今日の面倒さには敏感で、先の安心には鈍感です。これもまた、私たち凡夫のならいです。

しかし、続けてきたことは、思わぬところで支えになります。毎日の勉強で身についた力は、試験本番で自信になりますし、日々の仕事の経験は、困ったときに頼れる引き出しになります。結果が出る前から、積み重ねは心の支えになっているのです。

浄土宗を開いた法然上人は、念仏を日々のつとめとされたと伝えられています。一日に六万遍とも七万遍とも言われ、仏様の前だけでなく、歩いているときも、掃除しているときも、行住坐臥お念仏を称えていたそうです。とても真似できないと思うかもしれませんが、上人が選ばれたのは、難しい修行ではなく、誰でも毎日続けられる「南無阿弥陀仏」の一声でした。続けられなければ意味がない。だから、続けられる形にしたのです。

お念仏は、勉強や仕事のように点数や成績で確かめることができません。朝夕にお仏壇の前で手を合わせ、一声称える。その一分が今日の心を整え、日ごろ口になじんだ言葉は、慌てたときや心細いときにも自然と出てきます。そして、その積み重ねの先にあるのが、この世の評価ではなく、命を終えたのちに阿弥陀さまのお浄土に生まれる「往生」、いちばん先の安心です。

ただし「努め」と聞くと、頑張らなければと身構えてしまうかもしれません。完璧である必要はありません。忘れた日があっても、翌朝また始めればいいのです。続けるコツは、気負わず、小さく、やめないこと。

日々の努めは 先の安心

勉強も、仕事も、お念仏も、今日の小さな一歩が、いつかの自分を楽にしてくれます。この秋、毎日の「ひとつ」を決めてみてはいかがでしょうか。

南無阿弥陀仏

【9月の言葉】継続 持続 相続

脈々と伝えられてきたお念仏のバトンを私たちも受け継ぎ、保ち続け、そして、次の世代へ
Let us inherit Nembutsu practice, sustain it, and pass it to the next generation.
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浄土宗月訓カレンダーの9月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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9月に入り暑さがいくぶん和らいできました。朝晩は涼しいくらいです。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

古今和歌集に収められた藤原敏行の歌のとおり、これから彼岸にむかってお参りしやすくなっていくことと思います。

「継続」「持続」とは、日々称える念仏を絶やさず続けていくこと。そして「相続」とは、その念仏の教えを、親から子へ、子から孫へと伝えていくことです。
法然上人がお示しくださったお念仏の教えは、800年以上にわたり、こうして途切れることなく受け継がれてきました。それは、ひとりのお坊さんが守ってきたのではなく、無数の家庭の中で、親から子へと静かに手渡され続けてきたからにほかなりません。

ところで、「相続」と聞くと、まず財産のことを思い浮かべる人も少なくないでしょう。近年は、財産は分けて受け継いでも、お墓やお仏壇の「まつり」は受け継がないという人もちらほら出てまいりました。

民法では、財産の相続とは別に、系譜・祭具・墳墓といった祭祀財産は、慣習または指定によって「祭祀を主宰すべき者」が承継すると定められています(民法897条)。つまり、お仏壇やお墓を守っていくことは、財産分けとは別の、もう一つの「相続」として、法律上も位置づけられているのです。

しかし、それは法律で決めれば済むことではありません。「うちはこういうおつとめをしてきた」という姿を、子や孫に見せていく。手を合わせる後ろ姿を見せ、お念仏の声を聞かせる。こうすることで「あぁ我が家はこういう宗旨なんだな。私も大事にしてみようかな」と伝わっていく。この積み重ねこそが、財産以上に大切な、信仰の「おてつぎ」だと思います。

継続 持続 相続

日々の一声の念仏を絶やさず続けること。それを、次の世代に見せ伝えていくこと。
この秋彼岸に、ご先祖への感謝とともに、信仰を手渡していくことの尊さを、あらためて思っていただければ幸いです。

南無阿弥陀仏

令和8年盂蘭盆会・新盆家供養

8月13日18時30分より、盂蘭盆会および新盆供養法要を行いました。新盆家、一般檀信徒あわせて60名ほどのご参加をいただき、皆さんと一緒におつとめすることができました。

お盆は「盂蘭盆うらぼん」の略語といわれています。「盂蘭盆」はサンスクリット語の「ウランバナ」の音を漢字にあてたもので、「逆さ吊り」という意味を持ちます。中国には『盂蘭盆経うらぼんきょう』という経典があり、そこに説かれている以下のエピソードが起源となった先祖供養の風習がお盆の起源です。

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お釈迦様の弟子のひとりに目連(もくれん)というお弟子さんがいました。目連は神通力(超能力)を持っていたため「神通第一」と呼ばれていました。

ある日、亡くなった自分の母が今どこにいるかその神通力で見てみたところ、母親は餓鬼(がき)道(どう)という、飢えと渇きに苦しむ世界に落ちていました。

かわいそうに思った目連は、ご飯を持って母親のところへ行きます。でも母親が口に運ぼうとすると、そのご飯が燃え上がってしまって、結局食べられない…

どうしたらいいかわからず、目連はお釈迦様に相談します。するとお釈迦様は、「お前がどんな力を持っていても、一人ではお母さんを救えない。7月15日、修行僧たちがちょうど夏の修行を終える日に、いろんなご馳走や果物を用意して、たくさんのお坊さんたちに布施をしなさい。そうすればその功徳によって、お母さんだけでなく、七代前までのご先祖様も救われるであろう」とおっしゃいました。

目連がその通りに供養を施すと、母親は餓鬼道の苦しみから救われました。
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富士・富士宮地区では8月13日から16日がお盆の時期にあたり、仏壇をきれいにし、僧侶による棚経を受け、ご先祖様をお迎えする準備を行います。

また当山では、毎年8月13日、盂蘭盆会(うらぼんえ)にあわせ新盆家供養を行っています。新盆家からはお布施をいただき、当日お参りいただくみなさんへの供物を用意しています。新盆を迎える檀家さんには少し早めに来ていただき、供物の袋詰めを一緒に行いました。

法要では新盆を迎える祖霊を一人ずつ読み上げ念仏回向し、互いにとって大切な人の供養を共に行いました。また、法要後には用意した供物を新盆家からお参りの方々にお渡しただきました。

今年は4月末に先代住職の内室がお浄土に旅立たれましたので、当山にとっても新盆を迎えることになりました。多くの方にお参りいただいたことで、先代住職とともにきっと喜んでお帰り下さることでしょう。こうしてお盆のお迎えの準備がみなさまと一緒にできたことにほっといたしました。

暑い中、ともに手を合わせお参り下さった皆様、お手伝いいただいた新盆家の皆様、誠にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【8月の言葉】争いなき 平和な支え合い

自身のことを優先し他者とぶつかり合いがちな私たち。
相手を思い、助け合う気持ちを持つこと、それが平和への第一歩です。
Practice thinking of others before you think of yourself. This will bring peace to the world.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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8月は終戦記念日を迎える月です。1945年から数えて81回目の夏。戦没者の慰霊とともに、平和の尊さをあらためて思う時期でもあります。

自分のことを優先し、他者とぶつかり合ってしまう。それは個人と個人の間だけでなく、国と国との間でも変わらないようです。今年はイランとアメリカの間で軍事衝突が起こり、多くの命が失われました。一時は停戦の合意もなされましたが、それも長くは続かず、争いは今も続いています。自国の利益や正義を優先するあまり、争いがやまない。その構図は、私たちの日常の小さな諍いと、根っこのところでつながっているのかもしれません。

お釈迦さまは『法句経』の中で、「怨みに怨みを返せば、怨みがやむことは決してない。怨みを捨ててこそ、はじめてやむ。これは永遠の真理である」と説いています。争いは、争いによっては終わらない。恨みに恨みで応じれば、その連鎖はどこまでも続いていくのです。

実は浄土宗を開いた法然上人は幼少期、父親が政敵に討たれるという辛く悲しい経験をしました。しかし、死の間際、父である漆間時国は「もし、おまえが恨みをもったならば、その恨みは何世代にわたっても尽きがたいであろう。早く俗世を逃れ、出家して私の菩提を弔い、おまえ自身も、悟りをもとめるにこしたことはない」と幼い法然上人に伝えたと言われています。恨みは争いを呼び、争いは平和を遠ざけることを知っていたのでしょう。

親を討たれた恨みは計り知れないものですが、日ごろ私たちはちょっとしたことでも恨みや妬みを感じます。

その恨みや妬みは争いの根本ですが、結局はわが身の可愛さによるところが大きいのです。自分の利益を最大化したいという欲、どうして自分ばかりという不公平感、どこまでいっても自分、自分、自分です。

自分を優先する心を脇に置き、まず相手を思う。その小さな心がけの積み重ねが、争いの連鎖を断ち切る唯一の道であると二千五百年前から説かれてきました。心がけでは世界の戦争を止めることはできないかもしれません。けれども、家庭の中で、地域の中で、目の前の人を思いやり、争わずに助け合うことならできるはずです。

争いなき平和な支え合い

ところが頭では分かっていても、いざとなると自分のことを優先してしまう。相手を思う心を大切にしたいと願いながら、なかなかそうはできない。それが私たち凡夫です。

その弱さを責めるのではなく、手を合わせ、お念仏を称える。その時間の中で、争わずにいられなかった一日を、争わせてしまった自分の心を、静かに見つめ直す。

そうして自分を省みる時間を重ねていくことが、平和への確かな一歩になるのだと思います。

南無阿弥陀仏

中島地区子育て地蔵尊の祭礼

7月18日、中島地区の子育て地蔵尊の祭礼にて法要をおつとめしました。

今年は子どもの数が少なくなったため神輿はなく祭礼のみとなりましたが、炎天下の中、区長さんをはじめとする地域の方々やお子さんが参加くださり、無事お勤めすることができました。

この地蔵尊の祭礼は、篤信の檀家様によって昭和6年(1931年)この地を当山の境内地としてご寄進いただいたことに端を発します。以来、95年にわたって連綿と受け継がれてまいしました。

その頃の法源寺はというと先々代が住職を務めていた頃でしょう。その後、先代・功旭上人に引き継がれ、現住職・裕功上人に引き継がれ、そして私と、四代にわたって地域の安寧と子供の成長を祈願する法要をつとめてまいりました。きっと、この日お参りの地域の古老の方々も子どもの頃から参加していたに違いありません。

この日は梅雨明け前とはいえ地獄のような暑さでしたので、法話では地獄とお地蔵様の関係について以下のようなお話をいたしました。

地獄といえば閻魔大王を思い浮かべる人も多いでしょう。人が亡くなると、まず奪衣婆に服を脱がされ、その服の重さで生前の罪の重さを計られます。木の枝にかけてそのしなり具合を見るのですが、罪が重い人ほど枝が下までしなるというわけです。

この罪の重さにより、川を渡る場所が決まりました。罪深い者は深く流れの急なところを泳いで、罪が軽い者は浅瀬を歩いて、そして、罪がほとんどない者は橋を使って向こう岸へ渡ります。このわたる場所が三か所あることからあの世とこの世を分ける川を「三途の川」といったのです。

川を渡ると、極楽に行くか地獄に行くか、閻魔大王の裁きが待っています。浄玻璃の鏡に姿を映すと、隠してきた悪事も露わになってしまいます。一切ごまかしがきかないのです。そうして生前の罪を吟味し、私たちを裁くのです。

さて、『地蔵十王経』というお経には、この閻魔大王は地蔵菩薩の化身であると示されています。なんと実はこの閻魔様、本当の姿はお地蔵様だというのです。意外ですよね。

人が亡くなると七日ごと、初七日、二七日、三七日・・・と供養をして(七本塔婆を裏返していく)と聞いたことがあるでしょう。実はその七日ごとに私たちは裁きを受け、次のステージへと進んでいくのです。そして、七七日(四十九日)は次の生が決まるとされています。

閻魔大王が登場するのは五七日。地方によっては葬儀の後に、続いて三十五日法要を執り行うところもあるようです。生きているものが功徳を積み、その功徳を亡き人に振り向けることで罪障消滅をお願いするというわけですね。

しかし、閻魔様は私たちを地獄に落としたいわけではありません。できることなら、これを機縁に仏道に心を寄せてほしい、極楽浄土に行ってほしいと思っています。そのためあんなに厳しいお顔でいらっしゃるのです。なんだか、部活動の怖い監督みたいな感じですね。

でも、閻魔大王の本当のお姿がお地蔵様だと聞くと、少し安心しませんか。あんなに恐ろしいお顔をなさっているのは、私たちを懲らしめたいからではなく、なんとか仏様の道に引き戻したいという、厳しい愛情の表れだったのです。

お地蔵様は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道すべてを巡り、そこで苦しむ者を一人残らず救い上げるまでは、ご自身は仏にならないという誓いを立てられました。とりわけ最も苦しみ深い地獄にまで、自ら出向いて救ってくださる。そういう仏さまがこの地を長らく守って下さったことともに感謝し、これからも大切にお祀りしていきましょう。

こうした伝統ある行事が連綿と受け継がれていくお手伝いをさせていただいたことにありがたく思いました。

南無地蔵尊

【7月の言葉】思い 思われ 手を合わす

私たちが手を合わせ、極楽浄土の阿弥陀さまや
ご先祖さまを思うとき、その方々も私たちを思ってくださるのです。
When you place your palms together and think of those who have passed, they are watching over you.
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浄土宗月訓カレンダーの7月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。

これは大正時代末期から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人、金子みすゞの詩「こだまでしょうか」の前半です。東日本大震災の後、テレビで繰り返し流れていたのでそれを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
この詩はこう続きます。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

思えば思われるという言葉がありますが、優しい言葉をかければ優しい言葉が返ってくる、冷たい態度を示せば冷たい態度が返ってくる、そうした人と人との関係性を描いた詩です。

法然上人が師と仰いだ唐の善導大師は『観無量寿経疏』の中で、「彼此の三業あい捨離せず」(彼此三業不相捨離)と言っています。

彼(ひ)とは阿弥陀如来のこと、此(し)とは我々のこと、三業とは身体、言葉、心の三つの行いのことを言います。つまり、私たちの行いや言葉、思いを見聞きし受け止めており、我々が阿弥陀仏のことを想い続ければ、阿弥陀仏もまた私たちのことを想い続けてくださるということです。

これは単なる比喩ではありません。

私たちがお念仏を称え、阿弥陀仏を想うとき、その声は空に消えるのではなく、必ず聞き届けられ、応えてくださいます。呼べば、必ず返ってくる。それは、ご先祖との関係にも通じるものです。

お盆に手を合わせ、亡き人の名を呼ぶとき、返事は聞こえません。けれども、こだまが山に向かって放った声を必ず返すように、その思いは一方通行では終わりません。極楽浄土からご先祖もまた、こちらを見つめ、私たちのことを想ってくださっています。

「もう会えないから」と心を閉ざしてしまえば、その思いもそこで止まってしまいます。しかし、手を合わせ、語りかけ続ける限り、その思いは必ず届き、そしてまた返ってくるのです。

思い 思われ 手を合わす

呼べば応え、想えば想われる。それは阿弥陀さまとの関係であり、ご先祖との関係でもあります。7月に入り、当山でもそろそろお盆の準備が始まります。思うだけでなく手を合わすという行為を、手を合わすだけでなく思いを込めるという意識を大切にお過ごしいただければ幸いです。

南無阿弥陀仏

法源寺第二十三世内室 四十九日法要

6月7日、法源寺第二十三世髙瀨功旭上人 内室 髙瀨美智枝の四十九日法要(満中陰法要)を親族のみで行いました。先代内室には子が2人、孫が6人、ひ孫が11人います。それぞれの伴侶を合わせると、親族のみといっても総勢27名でのにぎやかな法要となりました。

当山のある地域では写真にあるような七本塔婆を用意し、七日ごとの供養が終わるたびに裏返していきます。当日は立ち日(命日)からすると六七日法要にあたりますが、皆がそろうこの日に七七日(満中陰)法要を営みました。

雨が心配される天候でしたが、納骨まではなんとか降らず、無事お勤めすることができました。納骨後は、お斎の席があり、先代内室の写真を見ながら思い出話に花を咲かせました。

こういう機会を大切にしていきたいと思います。

南無阿弥陀仏

【6月の言葉】慈悲の雨 心潤す

雨が大地をうるおすように、仏様の慈悲の心は
あらゆる人々の注がれています。
それに気づくとき、私たちの心も満たされるのです。
Amida Buddha vowed to save all beings.
Remembering this brings serenity to your heart.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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6月といえば梅雨の季節。しかし、雨がなかなか降らず、空梅雨気味の日々が続いています。東海地方の梅雨入りはまだ先になりそうです。

当山には不登校・引きこもりの若者を支援するNPOココ☆カラさんと一緒に運営する農園があり、境内でじゃがいもや夏野菜を育てています。この時期、作物の成長には水が欠かせません。雨が降らない日が続くと、土はみるみるうちに乾いてしまいます。先日、植え付けたサツマイモのツルもこの暑さと水不足で何本か干からびてしまいました。


しかし、梅雨入りしたらしたで、しとしとと続く雨に、今度は水のやりすぎを心配してしまいます。実が割れてしまわないか、病気にかからないかなど、あれだけ欲していた恵みの雨が、今度は心配のタネとして感じられます。人の心とは、つくづく勝手なものですね。

自然は人の都合で「ほどよくちょうど」とはなりませんが、田んぼの稲も、畑の野菜も、庭の草花も、何一つ育ちません。雨は、生きとし生けるものを養う、大切な恵みなのです。

「慈悲」という言葉は、サンスクリット語の「マイトリー(慈)」と「カルナー(悲)」に由来します。「慈」とは楽しみを与えること、「悲」とは苦しみを取り除くこと。この二つが合わさって「慈悲」という言葉になります。

仏さまの慈悲は、まさにこの雨のようなものです。

「慈悲」という言葉は、サンスクリット語の「マイトリー(慈)」と「カルナー(悲)」に由来します。「慈」とは楽しみを与えること、「悲」とは苦しみを取り除くこと。この二つが合わさって「慈悲」という言葉になります。
仏さまの慈悲は、まさにこの雨のようなものです。

雨は、豊かな庭にも、乾いた荒れ地にも、分け隔てなく降り注ぎます。大人にも子供にも、怒りっぽい人にも、優しい人にも、勉強が得意な人にも、スポーツが得意な人にも、楽しい気分の人にも、悲しい気分の人にも、すべての人々の上に平等に。

法然上人は、浄土宗を開かれたとき、念仏の教えを誰もが受け取れるものとして広められました。修行を積んだ僧侶だけでなく、農民も、商人も、武士も、老いた人も、幼い子も、どんな人でも「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることで救われる、と説かれました。まさに慈悲の雨は、万人の上に降り注ぐのです。

ところで、雨が恵みとして植物に吸収されるためには、そもそも大地が潤いを受け入れる状態でなければなりません。カチカチに固まった土には、雨水がうまく染み込まず、表面を流れてしまいます。心も同じで、疑いや頑なさでガードを固めてしまうと、せっかくの慈悲の雨も心の奥まで届かないことがあります。

忙しさや、悲しみ、人間関係の疲れで、私たちの心はついつい固くなってしまいます。そんなとき、手を合わせてお念仏を称えてみてください。

声に出してお念仏を称えることは、固まった心をほぐす一つのきっかけになります。仏さまの慈悲の雨が、少しずつ心に染み渡っていくのを感じることができるかもしれません。

慈悲の雨 心潤す

私たちの心には、今日も静かに、慈悲の雨が降り注いでいます。
その恵みを受け取れるよう、心を柔らかく耕しましょう。

南無阿弥陀仏



令和7年度岳陽組檀信徒総会

5月23日、富士宮の大頂寺さまにて岳陽組の檀信徒総会が行われました。令和7年度の事業報告と決算報告、そして令和8年度の事業計画案と予算案が審議され、無事承認をいただきました。

今年度は9月17日に大井川文化会館で教区檀信徒大会が行われるほか、11月末には岳陽組としてのおてつぎ信行奉仕団の予定がございます。ぜひ多くの方にご参加いただけたらありがたいです。【教区檀信徒大会の様子】 【おてつぎ信行奉仕団の様子】

総会の後は浄土宗特任布教師で、知恩院、増上寺、金戒光明寺と総・大本山の布教師をつとめていらっしゃる樋口法生上人(宮城教区・慈恩寺住職)をお招きし、「震災を通じ本願をかみしめる」と題した法話をいただきました。

樋口上人のご出身は宮城県石巻市。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた地域の一つです。津波で流された方の遺体が数多く収容され、その遺体の火葬が間に合わず、仮埋葬(土葬)という形で次々と埋葬されていきましたが、遺族からはせめて火葬だけはしてあげたいとの願いで山形県や岩手県の自治体での火葬を行う人も少なくなかったようです。

辛い別れを経験した遺族は故人に対し、安らかに、そしてもうこれ以上苦しむことがないように、との思いが強かったとのこと。何ができるわけでもありませんが、浄土宗僧侶としてただ一つ言えることは、阿弥陀様はどんな方でも救い取って下さる。阿弥陀様のいる極楽浄土は心安らかになれる場所であるということだけであると。

こうした震災当時のお話を交えながら、法然上人の御法語にある「ある時には世間の無常なることを思いてこの世のいくほどなきことを知れ。ある時には仏の本願を思いて必ず迎え給(たま)えと申せ」という一節を解説くださいました。

現代語訳するなら「ある時には、世間が無常であることを思って、この人生がさほど長くないことをわきまえなさい。またある時には、阿弥陀仏の本願を思って、「必ず極楽へお迎えください」と口に出しなさい」となるでしょう。

私たち凡夫は、限りある命、この世は無常と頭で知ってはいても、命がいつまでも続くがごとく日々を過ごしています。そう思わずに、阿弥陀様のわが名を称えるすべての人を極楽浄土に迎え入れるという誓い(本願)を頼みに念仏に励みましょうということです。

ご自身の体験から実感を得て語られる力強いお言葉に、多くの聴衆が深くうなずいておりました。心に染み入るご法話を頂戴し、まことに良きお時間を過ごさせていただきました。

南無阿弥陀仏

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