【8月の言葉】争いなき 平和な支え合い

自身のことを優先し他者とぶつかり合いがちな私たち。
相手を思い、助け合う気持ちを持つこと、それが平和への第一歩です。
Practice thinking of others before you think of yourself. This will bring peace to the world.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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8月は終戦記念日を迎える月です。1945年から数えて81回目の夏。戦没者の慰霊とともに、平和の尊さをあらためて思う時期でもあります。

自分のことを優先し、他者とぶつかり合ってしまう。それは個人と個人の間だけでなく、国と国との間でも変わらないようです。今年はイランとアメリカの間で軍事衝突が起こり、多くの命が失われました。一時は停戦の合意もなされましたが、それも長くは続かず、争いは今も続いています。自国の利益や正義を優先するあまり、争いがやまない。その構図は、私たちの日常の小さな諍いと、根っこのところでつながっているのかもしれません。

お釈迦さまは『法句経』の中で、「怨みに怨みを返せば、怨みがやむことは決してない。怨みを捨ててこそ、はじめてやむ。これは永遠の真理である」と説いています。争いは、争いによっては終わらない。恨みに恨みで応じれば、その連鎖はどこまでも続いていくのです。

実は浄土宗を開いた法然上人は幼少期、父親が政敵に討たれるという辛く悲しい経験をしました。しかし、死の間際、父である漆間時国は「もし、おまえが恨みをもったならば、その恨みは何世代にわたっても尽きがたいであろう。早く俗世を逃れ、出家して私の菩提を弔い、おまえ自身も、悟りをもとめるにこしたことはない」と幼い法然上人に伝えたと言われています。恨みは争いを呼び、争いは平和を遠ざけることを知っていたのでしょう。

親を討たれた恨みは計り知れないものですが、日ごろ私たちはちょっとしたことでも恨みや妬みを感じます。

その恨みや妬みは争いの根本ですが、結局はわが身の可愛さによるところが大きいのです。自分の利益を最大化したいという欲、どうして自分ばかりという不公平感、どこまでいっても自分、自分、自分です。

自分を優先する心を脇に置き、まず相手を思う。その小さな心がけの積み重ねが、争いの連鎖を断ち切る唯一の道であると二千五百年前から説かれてきました。心がけでは世界の戦争を止めることはできないかもしれません。けれども、家庭の中で、地域の中で、目の前の人を思いやり、争わずに助け合うことならできるはずです。

争いなき平和な支え合い

ところが頭では分かっていても、いざとなると自分のことを優先してしまう。相手を思う心を大切にしたいと願いながら、なかなかそうはできない。それが私たち凡夫です。

その弱さを責めるのではなく、手を合わせ、お念仏を称える。その時間の中で、争わずにいられなかった一日を、争わせてしまった自分の心を、静かに見つめ直す。

そうして自分を省みる時間を重ねていくことが、平和への確かな一歩になるのだと思います。

南無阿弥陀仏

中島地区子育て地蔵尊の祭礼

7月18日、中島地区の子育て地蔵尊の祭礼にて法要をおつとめしました。

今年は子どもの数が少なくなったため神輿はなく祭礼のみとなりましたが、炎天下の中、区長さんをはじめとする地域の方々やお子さんが参加くださり、無事お勤めすることができました。

この地蔵尊の祭礼は、篤信の檀家様によって昭和6年(1931年)この地を当山の境内地としてご寄進いただいたことに端を発します。以来、95年にわたって連綿と受け継がれてまいしました。

その頃の法源寺はというと先々代が住職を務めていた頃でしょう。その後、先代・功旭上人に引き継がれ、現住職・裕功上人に引き継がれ、そして私と、四代にわたって地域の安寧と子供の成長を祈願する法要をつとめてまいりました。きっと、この日お参りの地域の古老の方々も子どもの頃から参加していたに違いありません。

この日は梅雨明け前とはいえ地獄のような暑さでしたので、法話では地獄とお地蔵様の関係について以下のようなお話をいたしました。

地獄といえば閻魔大王を思い浮かべる人も多いでしょう。人が亡くなると、まず奪衣婆に服を脱がされ、その服の重さで生前の罪の重さを計られます。木の枝にかけてそのしなり具合を見るのですが、罪が重い人ほど枝が下までしなるというわけです。

この罪の重さにより、川を渡る場所が決まりました。罪深い者は深く流れの急なところを泳いで、罪が軽い者は浅瀬を歩いて、そして、罪がほとんどない者は橋を使って向こう岸へ渡ります。このわたる場所が三か所あることからあの世とこの世を分ける川を「三途の川」といったのです。

川を渡ると、極楽に行くか地獄に行くか、閻魔大王の裁きが待っています。浄玻璃の鏡に姿を映すと、隠してきた悪事も露わになってしまいます。一切ごまかしがきかないのです。そうして生前の罪を吟味し、私たちを裁くのです。

さて、『地蔵十王経』というお経には、この閻魔大王は地蔵菩薩の化身であると示されています。なんと実はこの閻魔様、本当の姿はお地蔵様だというのです。意外ですよね。

人が亡くなると七日ごと、初七日、二七日、三七日・・・と供養をして(七本塔婆を裏返していく)と聞いたことがあるでしょう。実はその七日ごとに私たちは裁きを受け、次のステージへと進んでいくのです。そして、七七日(四十九日)は次の生が決まるとされています。

閻魔大王が登場するのは五七日。地方によっては葬儀の後に、続いて三十五日法要を執り行うところもあるようです。生きているものが功徳を積み、その功徳を亡き人に振り向けることで罪障消滅をお願いするというわけですね。

しかし、閻魔様は私たちを地獄に落としたいわけではありません。できることなら、これを機縁に仏道に心を寄せてほしい、極楽浄土に行ってほしいと思っています。そのためあんなに厳しいお顔でいらっしゃるのです。なんだか、部活動の怖い監督みたいな感じですね。

でも、閻魔大王の本当のお姿がお地蔵様だと聞くと、少し安心しませんか。あんなに恐ろしいお顔をなさっているのは、私たちを懲らしめたいからではなく、なんとか仏様の道に引き戻したいという、厳しい愛情の表れだったのです。

お地蔵様は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道すべてを巡り、そこで苦しむ者を一人残らず救い上げるまでは、ご自身は仏にならないという誓いを立てられました。とりわけ最も苦しみ深い地獄にまで、自ら出向いて救ってくださる。そういう仏さまがこの地を長らく守って下さったことともに感謝し、これからも大切にお祀りしていきましょう。

こうした伝統ある行事が連綿と受け継がれていくお手伝いをさせていただいたことにありがたく思いました。

南無地蔵尊

【7月の言葉】思い 思われ 手を合わす

私たちが手を合わせ、極楽浄土の阿弥陀さまや
ご先祖さまを思うとき、その方々も私たちを思ってくださるのです。
When you place your palms together and think of those who have passed, they are watching over you.
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浄土宗月訓カレンダーの7月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。

これは大正時代末期から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人、金子みすゞの詩「こだまでしょうか」の前半です。東日本大震災の後、テレビで繰り返し流れていたのでそれを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
この詩はこう続きます。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

思えば思われるという言葉がありますが、優しい言葉をかければ優しい言葉が返ってくる、冷たい態度を示せば冷たい態度が返ってくる、そうした人と人との関係性を描いた詩です。

法然上人が師と仰いだ唐の善導大師は『観無量寿経疏』の中で、「彼此の三業あい捨離せず」(彼此三業不相捨離)と言っています。

彼(ひ)とは阿弥陀如来のこと、此(し)とは我々のこと、三業とは身体、言葉、心の三つの行いのことを言います。つまり、私たちの行いや言葉、思いを見聞きし受け止めており、我々が阿弥陀仏のことを想い続ければ、阿弥陀仏もまた私たちのことを想い続けてくださるということです。

これは単なる比喩ではありません。

私たちがお念仏を称え、阿弥陀仏を想うとき、その声は空に消えるのではなく、必ず聞き届けられ、応えてくださいます。呼べば、必ず返ってくる。それは、ご先祖との関係にも通じるものです。

お盆に手を合わせ、亡き人の名を呼ぶとき、返事は聞こえません。けれども、こだまが山に向かって放った声を必ず返すように、その思いは一方通行では終わりません。極楽浄土からご先祖もまた、こちらを見つめ、私たちのことを想ってくださっています。

「もう会えないから」と心を閉ざしてしまえば、その思いもそこで止まってしまいます。しかし、手を合わせ、語りかけ続ける限り、その思いは必ず届き、そしてまた返ってくるのです。

思い 思われ 手を合わす

呼べば応え、想えば想われる。それは阿弥陀さまとの関係であり、ご先祖との関係でもあります。7月に入り、当山でもそろそろお盆の準備が始まります。思うだけでなく手を合わすという行為を、手を合わすだけでなく思いを込めるという意識を大切にお過ごしいただければ幸いです。

南無阿弥陀仏

法源寺第二十三世内室 四十九日法要

6月7日、法源寺第二十三世髙瀨功旭上人 内室 髙瀨美智枝の四十九日法要(満中陰法要)を親族のみで行いました。先代内室には子が2人、孫が6人、ひ孫が11人います。それぞれの伴侶を合わせると、親族のみといっても総勢27名でのにぎやかな法要となりました。

当山のある地域では写真にあるような七本塔婆を用意し、七日ごとの供養が終わるたびに裏返していきます。当日は立ち日(命日)からすると六七日法要にあたりますが、皆がそろうこの日に七七日(満中陰)法要を営みました。

雨が心配される天候でしたが、納骨まではなんとか降らず、無事お勤めすることができました。納骨後は、お斎の席があり、先代内室の写真を見ながら思い出話に花を咲かせました。

こういう機会を大切にしていきたいと思います。

南無阿弥陀仏

【6月の言葉】慈悲の雨 心潤す

雨が大地をうるおすように、仏様の慈悲の心は
あらゆる人々の注がれています。
それに気づくとき、私たちの心も満たされるのです。
Amida Buddha vowed to save all beings.
Remembering this brings serenity to your heart.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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6月といえば梅雨の季節。しかし、雨がなかなか降らず、空梅雨気味の日々が続いています。東海地方の梅雨入りはまだ先になりそうです。

当山には不登校・引きこもりの若者を支援するNPOココ☆カラさんと一緒に運営する農園があり、境内でじゃがいもや夏野菜を育てています。この時期、作物の成長には水が欠かせません。雨が降らない日が続くと、土はみるみるうちに乾いてしまいます。先日、植え付けたサツマイモのツルもこの暑さと水不足で何本か干からびてしまいました。


しかし、梅雨入りしたらしたで、しとしとと続く雨に、今度は水のやりすぎを心配してしまいます。実が割れてしまわないか、病気にかからないかなど、あれだけ欲していた恵みの雨が、今度は心配のタネとして感じられます。人の心とは、つくづく勝手なものですね。

自然は人の都合で「ほどよくちょうど」とはなりませんが、田んぼの稲も、畑の野菜も、庭の草花も、何一つ育ちません。雨は、生きとし生けるものを養う、大切な恵みなのです。

「慈悲」という言葉は、サンスクリット語の「マイトリー(慈)」と「カルナー(悲)」に由来します。「慈」とは楽しみを与えること、「悲」とは苦しみを取り除くこと。この二つが合わさって「慈悲」という言葉になります。

仏さまの慈悲は、まさにこの雨のようなものです。

「慈悲」という言葉は、サンスクリット語の「マイトリー(慈)」と「カルナー(悲)」に由来します。「慈」とは楽しみを与えること、「悲」とは苦しみを取り除くこと。この二つが合わさって「慈悲」という言葉になります。
仏さまの慈悲は、まさにこの雨のようなものです。

雨は、豊かな庭にも、乾いた荒れ地にも、分け隔てなく降り注ぎます。大人にも子供にも、怒りっぽい人にも、優しい人にも、勉強が得意な人にも、スポーツが得意な人にも、楽しい気分の人にも、悲しい気分の人にも、すべての人々の上に平等に。

法然上人は、浄土宗を開かれたとき、念仏の教えを誰もが受け取れるものとして広められました。修行を積んだ僧侶だけでなく、農民も、商人も、武士も、老いた人も、幼い子も、どんな人でも「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることで救われる、と説かれました。まさに慈悲の雨は、万人の上に降り注ぐのです。

ところで、雨が恵みとして植物に吸収されるためには、そもそも大地が潤いを受け入れる状態でなければなりません。カチカチに固まった土には、雨水がうまく染み込まず、表面を流れてしまいます。心も同じで、疑いや頑なさでガードを固めてしまうと、せっかくの慈悲の雨も心の奥まで届かないことがあります。

忙しさや、悲しみ、人間関係の疲れで、私たちの心はついつい固くなってしまいます。そんなとき、手を合わせてお念仏を称えてみてください。

声に出してお念仏を称えることは、固まった心をほぐす一つのきっかけになります。仏さまの慈悲の雨が、少しずつ心に染み渡っていくのを感じることができるかもしれません。

慈悲の雨 心潤す

私たちの心には、今日も静かに、慈悲の雨が降り注いでいます。
その恵みを受け取れるよう、心を柔らかく耕しましょう。

南無阿弥陀仏



令和7年度岳陽組檀信徒総会

5月23日、富士宮の大頂寺さまにて岳陽組の檀信徒総会が行われました。令和7年度の事業報告と決算報告、そして令和8年度の事業計画案と予算案が審議され、無事承認をいただきました。

今年度は9月17日に大井川文化会館で教区檀信徒大会が行われるほか、11月末には岳陽組としてのおてつぎ信行奉仕団の予定がございます。ぜひ多くの方にご参加いただけたらありがたいです。【教区檀信徒大会の様子】 【おてつぎ信行奉仕団の様子

総会の後は浄土宗特任布教師で、知恩院、増上寺、金戒光明寺と総・大本山の布教師をつとめていらっしゃる樋口法生上人(宮城教区・慈恩寺住職)をお招きし、「震災を通じ本願をかみしめる」と題した法話をいただきました。

樋口上人のご出身は宮城県石巻市。東日本大震災の津波で大きな被害を受けた地域の一つです。津波で流された方の遺体が数多く収容され、その遺体の火葬が間に合わず、仮埋葬(土葬)という形で次々と埋葬されていきましたが、遺族からはせめて火葬だけはしてあげたいとの願いで山形県や岩手県の自治体での火葬を行う人も少なくなかったようです。

辛い別れを経験した遺族は故人に対し、安らかに、そしてもうこれ以上苦しむことがないように、との思いが強かったとのこと。何ができるわけでもありませんが、浄土宗僧侶としてただ一つ言えることは、阿弥陀様はどんな方でも救い取って下さる。阿弥陀様のいる極楽浄土は心安らかになれる場所であるということだけであると。

こうした震災当時のお話を交えながら、法然上人の御法語にある「ある時には世間の無常なることを思いてこの世のいくほどなきことを知れ。ある時には仏の本願を思いて必ず迎え給(たま)えと申せ」という一節を解説くださいました。

現代語訳するなら「ある時には、世間が無常であることを思って、この人生がさほど長くないことをわきまえなさい。またある時には、阿弥陀仏の本願を思って、「必ず極楽へお迎えください」と口に出しなさい」となるでしょう。

私たち凡夫は、限りある命、この世は無常と頭で知ってはいても、命がいつまでも続くがごとく日々を過ごしています。そう思わずに、阿弥陀様のわが名を称えるすべての人を極楽浄土に迎え入れるという誓い(本願)を頼みに念仏に励みましょうということです。

ご自身の体験から実感を得て語られる力強いお言葉に、多くの聴衆が深くうなずいておりました。心に染み入るご法話を頂戴し、まことに良きお時間を過ごさせていただきました。

南無阿弥陀仏

【5月の言葉】まず一呼吸

がんばりすぎたり、焦ったりしていませんか。
そんなときは一息ついてみましょう。
落ち着いて取り組めるようになりますよ。
Before impatience and irritation carry you away, pause and breathe deeply.
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浄土宗月訓カレンダーの5月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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早いもので今年も3分の1が終わりました。
春に進学や就職、さらには定年退職など、新たなライフステージを迎えた方も多いでしょう。ひと月経って、環境に徐々に慣れ、生活にリズムが出てくるころではないでしょうか。

これまでは自分のことで手いっぱいだったのが、だんだんと余裕が出てくると、つい周りが気になってしまいます。

大学で初めて仲良くなった友人の課題の出来が全然違うとか、一緒に入社した同期の営業成績が自分よりもすごいとか、リタイア後、自分は毎日ぐうたらしているのに、あの人は第二の人生のスタートをうまく切っているとか。

隣の芝は青いとはよく言いますが、他人と自分を比べて一喜一憂してしまうが私たち凡夫です。

最近はSNSの普及・発達で知らない誰かの生活と自分を比べてしまう人も少なくないのだとか。Instagram やX(旧Twitter)には、見ず知らずの人たちのキラキラした情報があふれています。そしてこれらSNSはアルゴリズムによって私たちが興味のありそうなものが勝手に紐づけられ、画面に出てくるように仕向けられています。

あんな生活してみたいなぁ
自分にもラッキーなことが降って湧いてこないかなぁ
うまいこと成功できてうらやましいなぁ

誰しもこんな気持ちを持ったことあるのではないでしょうか。
そして心がだんだんと疲弊していく。

心を回復させるのに効果的な方法の一つがデジタルデトックスです。
デトックス(Detox)とは、英語で「解毒」を意味するdetoxification(デトキシフィケーション)の略語で、体内に溜まった有害毒物を排出させることを意味します。この電子機器バージョンが、デジタルデトックスです。

友人とつながりたい、趣味の活動を発信したいなど、楽しみで始めたSNSも気づけば情報過多で疲れてしまうこともあるでしょう。過ぎたるは及ばざるがごとしの典型です。

しかし、スマホにアプリが入っていれば、つい目にしてしまうのが人間の性。そこで、スマートフォンを預け、物理的にデジタル空間から距離を置くということです。いたずらに他者と比較することがなくなり、結果として自分の心と向き合う時間が増やせます。

実はこれ、修行の時も全く同じでした。

修行に行くと、最初、携帯電話や本、雑誌など、修行に不要なものはその道場の係の人に預けます。もちろん修行道場にはテレビや新聞もありません。お寺の外の世界と完全に切り離され、物理的に修行だけにしか集中できない環境を作るのですね。

深呼吸は日常の中で自分の意識を自分にむけるスイッチとも言えます。

まず一呼吸

周りと自分を比較しなくてもいいんです。
気になってしまう時は一呼吸して、ゆっくり考えましょう。
落ち着きを取り戻せたら、また大きく前に進む力が得られることと思います。

南無阿弥陀仏

【4月の言葉】それでも花は咲く

今の環境があなたにとってよくないものと感じたとしても、それはあなたの糧となり結果につながるものです。
If the present seems daunting, press forward.
With time, good things will come.
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浄土宗月訓カレンダーの4月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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4月を迎え、進学や就職など希望にあふれた未来を想像する人もいるでしょう。
また、卒業や退職といった節目を迎え、新たな人生のステージへと進む方もいるでしょう。
春は終わりと始まりの季節です。

しかし、そうした節目を迎えることなく、突然、命の終わりを迎えてしまった人もいます。
15年前の3月11日、東日本大震災が起こり、多くの尊い命が失われました。自然災害が多い日本ですが、あれだけの被害を出した災害はそう多くありません。

日本中が悲しみに暮れ、鎮魂の祈りがささげられる中、復興支援ソングとして「花は咲く」という歌がNHKによってつくられました。そこはかとなく悲さを帯びながらも、優しくゆったりとしたメロディが耳に残ります。CMやテレビ番組でよく流れていたので覚えている方も多いのではないでしょうか。東北ゆかりの歌手や俳優、タレントの方々がリレー形式で歌っていく(一節ごとに声が変わる)という形式も特徴的でした(私は特に西田敏行さんの声が好きでした)。

歌詞もまた印象的です。

残された人が亡くなった人のことを想って語る言葉(歌詞)もあれば、亡くなった人が現世で生きる人のことを想って語る言葉(歌詞)もあり、生者と死者の交感が描かれているように感じられます。とくにサビの部分はぐっとくるものがあります。

花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう
花は 花は 花は咲く いつか恋する君のために

震災後に咲く花といえば、季節は春ですから桜でしょうか。
あちらの世界から、こちらの世界で咲く花を愛でながら、現世で生きる残された人、これから生まれる命、そうしたものへ想いを寄せる抒情的なフレーズです。あの世からの視点で歌うことで、こちらの世にいる人たちが、一緒に見たかったあの人は今はいないという寂しさを感じていることも示唆されます。

この歌には、この世の、目に見える世界だけで完結していない世界観が描かれているのも素敵だなと思います。震災でなくても、大切な人との別れを経験した人は大勢います。災害であれ、病気であれ、寿命であれ、あの人が今生きていればなぁと思い出すことがあるのではないでしょうか。そうした人にとってもこの歌の持つメッセージ性は響くのではないでしょうか。

生きていくことは楽しいことの連続ではありません。
ときには苦しく、辛い、悲しいこともあります。

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、人は下を向きがちです。
しかし、下を向いていては空に向かって伸びる桜を目にすることはできません。

その桜だって、一年の間、暑い日、寒い日、雨の日、風の日を耐えて、美しい花を咲かせるのです。

それでも花は咲く

春は出会いと別れの季節でもあります。心躍る出会いを経験した人の上にも、悲しい別れを経験した人の上にも、桜は同じように咲いています。

すぐに、とはいいません。
それでも咲く花のように、いつか笑顔の花が咲きますように。

南無阿弥陀仏

【3月の言葉】春のさえずり 身を軽く

いそがしい時には視野が狭くなりがち。そんなときこそ周りに意識を向けてみて。春の足音はもうすぐそこに。きっと気分も軽くなるはずです。
Let’s spring birdsong bring lightness to body and soul.
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浄土宗月訓カレンダーの3月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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ついこの前、新年を迎えたと思ったら、もう3月です。
一月は行ってしまう、二月は逃げてしまう、三月は去ってしまうといいますが、月日は経つのは早いもの。とくに年始めや年度末など何かと用事が立て込んでいる季節はなおさらです。

「忙しい」という字は、心が亡くなると書きます。忙しい時はつい自分の用事だけ、自分のことだけに集中しがちで、周囲を見渡す心の余裕がなくなりがちです。そんな時は自分の呼吸に集中してゆっくり10回深呼吸をしてみてください。

仏教には数息観(すそくかん)という瞑想法があります。自分の呼吸に意識を向け、呼吸を数えるというものですが、息を吸いゆっくり吐き出すことを1とし、10まで呼吸を数えます。するとどうでしょう、心の乱れが収まり、五感が研ぎ澄まされることに気づきます。ゆっくり呼吸をする間に、聞き逃していた音、風が肌に触れる感覚、花の香りなど、自分が感じ逃していたものが体内に取り込まれていく感覚を覚えます。

瞑想は難しいという人は、十回のお念仏でもよいでしょう。ゆっくり、はっきり「なむあみだぶ」を称えるだけで、忙しさに流されていた心が立ち止まり、気持ちの落ち着きを取り戻すことができます。

現代人には、目まぐるしく変わる社会の変化、その激流の中で立ち止まるという瞬間が必要です。流れる景色が流れていることに気づくのは自分が立ち止まるからなのです。一休さんも言ってます「あわてない、あわてない。一休み、一休み」と。

間もなく二十四節気の「啓蟄」を迎えます(今年は3月5日です)。「啓」は「ひらく」、「蟄」は「土の中に閉じこもる」を意味します。土の中で冬ごもりをしていた虫が暖かさに誘われて土から出てくる頃で、寒さが和らぎ、春の訪れを感じる時期です。

しかし、心に余裕がなければ、そうした季節の変化にも気づくことはできません。

春のさえずり 身を軽く

春はそこまでやってきています。一息ついて、心を落ち着け、周りに目を向けてみましょう。どんな景色が、音が、においが、感じられますか?

心に余裕をもって日々生活したいものですね。

南無阿弥陀仏

【2月の言葉】感謝も不満も 同じ口から

私たちの思う「よいこと」や「悪いこと」。
自分にとっての都合で決めてしまってはいませんか?
Before you decide what is good or bad, remember to keep an open mind.
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浄土宗月訓カレンダーの2月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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「良薬口に苦し」ということわざがあります。
口に含んだ時は苦くて飲み込みづらいけど効き目がある。転じて、耳が痛く、素直に受け入れがたい意見こそ、自分にとって真の課題や改善点を指摘してくれるものである。というような意味です。

実は英語でも、真実を隠し、体裁を良くした言葉のことを、Sugar coated wordsと言います。sugarは「砂糖」、coatedは「コーティングされた」とか「上に塗った」という意味です。wordsは言葉遣いや意見を表す語ですので、直訳すると「砂糖でコーティングされた言葉」となります。

洋の東西を問わず、苦いもの、口当たりの悪いものは受け入れがたいのが人間の性というものでしょう。

言葉だけではありません。部活動などで、単調な基礎練習や辛く苦しい練習があってこそ、地力がつき、成長も得られるというもの。楽なことばかりしていると、楽しいのはその場限りということになります。あの時、もっとこうしておけばよかったなぁと、最後に悔しい思いをするのは自分自身です。

しかし、私たちはつい今の自分の物差しで物事の良し悪しを測りがちです。そして、その良し悪しとは、自分にとって心地よいとか、都合がよいとか、そうしたことで判断される傾向にあります。自分の負担が少ないとか、期待通り、思惑通り事が進むとか、「今の自分」がその中心にある物差しです。

水は低きに流れ、人は易きに流れると言いますが、煩悩に迷う私たち凡夫はつい楽な道を選びたくなるもの。そうした際、時に厳しく、時に温かく導いてくれる方のことを仏教では善知識(ぜんちしき)といいます。善き友、真の友、正しき友のことです。

仏様のような智慧を持ち合わせていない私たちですから、いやなことを言われたり、辛いことを味わったりすると、「何で自分ばっかり損をするんだ」「こんな思いをするのは、なぜあいつじゃなくて自分なのか」と不満や愚痴も出るでしょう。

しかし、「人は自分の快不快、都合不都合という物差しを持ちがちである」と、気づくだけで、受け止め方がずいぶん変わるのでないでしょうか。

感謝も不満も 同じ口から

これも何かの縁と受け止め方に違いが生じれば、口から出る言葉も不満から感謝の言葉に変わるはず。感謝の言葉を口にする人には、自然と幸せが集まってきます。正確に言えば、ささいなことでも幸せに感じられるような心が育っていく、ということです。

同じ口から出るのなら、マイナスな言葉よりプラスな言葉の方がいいですよね。
まずは、「ありがとう」が出せるよう、どんな言葉、体験にも感謝の心をもって接してみましょう。

南無阿弥陀仏

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