十夜法要をおつとめしました

10月14日14時より、本堂にて十夜法要を厳修いたしました。

十夜法要とは、浄土宗に伝わる念仏会で、当山の開山上人である鎌倉光明寺第九世・観譽祐崇上人が、室町時代に後土御門天皇の勅許を得て浄土宗寺院で行うことが許されるようになった由緒ある法要です。

この十夜法要は『無量寿経』の一節にある教えを実践したものです。そこには、「娑婆世界で十日十夜の間、善行を修めることは、仏の世界で千年にわたって善行に励むよりもすぐれている」と説かれています。

法源寺では今年も大勢の檀信徒の皆様にお参りいただき、功徳を積んでいただきました。

法要後は、片山善博先生をお招きし、「人口減少下の日本~活気ある地域をつくるには何が必要か~」というテーマでお話しいただきました。日本全体で人口減少局面に突入し、特に地方都市では人口減少が年々進んでいます。しかし、こうした中にあっても、生産性を向上させることで対応できるとのこと。そして、生産性向上のためには、いきいきと働ける環境を整えること、性別や障害の有無で役割や能力を決めつけないこと、男性も育休をとり子育てに参加することなどが肝要であるとお話しくださいました。

仏教では、偏見や固定概念を離れて物事をありのままでとらえることを大事と説きます。まさに、こうした教えに通じるものが社会の維持発展の役立つものだとあらためて感じるお話でした。

なお、講演会には檀信徒以外の方の参加もあり、大変にぎやかな十夜法要となりました。

ご参加くださった皆様、運営にご尽力くださった総代、世話人の皆様、ありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【10月の言葉】右は仏 左は私 合す掌

合掌する左右の手、それは、仏様に対する深い思いの表現。
その時、平和でおだやかな時に抱かれます。
When you bring your hands together in prayer,
you bring the Budda and yourself together.
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浄土宗月訓カレンダーの10月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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今から20数年前、初めての海外旅行はインドの仏跡巡拝でした。
仏跡とはお釈迦様にまつわる場所のことで、お生まれになったルンビニ、さとりを開かれたブッダガヤ、初めて法を説いたサ-ルナート、そして涅槃に入られたクシナガラの四つを四大聖地と呼びます(このうちルンビニはネパールにあります)。

インドでは毎日カレーを食べましたが、インドの方は手で召し上がります。そして、使うのは決まって右手だけです。なぜなら、インドでは右手は清浄な手、左手は不浄な手として認識されているからです。こうした、手に対する浄不浄観はヒンドゥー教由来のものです。ヒンドゥー教の原型は、バラモン教と言われていますが、バラモン教は古代インドから多くの人々の生活や思想に影響を与えていました。合掌もその一つです。

合掌は、右手はさとりを開いた迷いなき仏を、左手が迷いの世界に生きる私たち衆生を表し、この浄なる右手、不浄なる左手をあわせることで、仏さまと私たちが一体となることを願う姿を象徴すると言われます。

その昔、仏壇屋さんのCMで「お手てのしわとしわを合わせて“しあわせ”、なーむー」というものがありました。今でも合掌する時というのは、仏事以外でも、敬意や感謝を示すときに使います(ときには謝罪も?)。仏と私が一体となった姿ですので、いくら至らない私たちでも仏の力で心が清らかになりますから、自然と穏やかな心になるものです。

右は仏 左は私 合わす掌

10月はお十夜シーズン。浄土宗の各寺院で十夜法要が営まれます。
十夜法要とは、十日十夜にわたって行う念仏会のことで、古くは室町時代、鎌倉光明寺九世であった観譽祐崇上人によって浄土宗にもたらされた由緒ある法要です。この季節、きっとお寺にお参りして念仏を称える機会も多くあることでしょう。

合す手と手に御仏を感じながら、御仏の名を声に出す。きっと心は穏やかになるに違いありません。合掌して念仏を称えるこの素晴らしい勝縁に、ぜひともお参りいただければと思います。

南無阿弥陀仏

【9月の言葉】備えは今から

思わぬ事態が起きてから対応するのは簡単ではありません。日々準備を積み重ねていくことが大切です。
The time to get ready is now.
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浄土宗月訓カレンダーの9月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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9月1日は防災の日。各地で防災訓練が行われます。この日が防災の日となったのは、1923年(大正12年)のこの日に関東大震災が起きたことに由来するそうです。ちなみに法源寺前住職の功旭上人はこの前日、1923年8月31日に生まれました。マグニチュード7.9の大地震の揺れは、ここ富士でも感じられたようで、当時、本堂裏手にあった竹やぶに、前住職の母が生まれたばかりのわが子を抱えて逃げ込んだという話を伝え聞いております。

天災は忘れたころにやってくるとはよく言ったもの。日本は古来より、地震や津波、台風など自然災害に悩まされてきました。そうした、一大事のために日頃から備えをしておくことは大切です。

私たちが生きていく中においても一大事はあります。病気やケガも一大事ですが、一番大きなことは、この世の命を全うする時、すなわち命尽きる時です。

私たちは生まれる時代や国、家を選ぶことはできませんが、この世に生を受けたものにとって平等に与えられた条件が2つあります。

ひとつは一日が24時間であること。
もうひとつは命に終わりがあること。

お金持ちも貧しい人も、学のある人もない人も、優しい人も、いつも怒っている人も一日の長さは変わりません。そして、いつ終わるかはわかりませんが、すべての人には命の終わりがあります。しかし、日常の中で「死」を考えて生きることは少ないのではないでしょうか。

最近、ある方からこんな話を聞きました。

父親を病院に連れて行ったら緊急入院となり、そこで経管栄養(鼻あるいは口から胃まで挿入されたチューブで栄養をとること)となってしまった。誤嚥性肺炎のおそれがあることから、もう口から食事をとることができない。親父の最後の食事は、病院までの道すがら小腹ふさぎに買ったコンビニのいなり寿司になってしまった。すまないことをしてしまった、と。

私たちは明日も当たり前に来ると思っています。ご飯もまた食べられると思っているでしょう。その方も、ちょっと病院で見てもらったら帰りにおいしいものでも食べて帰ってこようと思っていたかもしれません。今の、この一食が、口から食べる最後の食事になるとは思っていなかったことでしょう。

終わりがわかれば備えもできますが、終わりは突然訪れるもの。

法然上人も以下のように言っています。

人の死の縁は、かねて思うにもかない候わず。にわかに大路みちにて、終わる事も候。大小便利のところにて死ぬる人も候。前業逃れがたくて、太刀かたなにて命を失い、火に焼け、水に溺れて、命を滅ぼすたぐい多く候えば、さようにて死に候とも、日頃の念佛申して極楽へ参る心だにも候人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀・観音・勢至、来たり迎え給うべしと信じおぼしめすべきにて候なり。

(現代語訳)
人が死ぬ時というのは、普段の思い通りにはいかないものです。道を歩いていて突然倒れて死んでしまうこともあれば、お手洗いで用を足している最中に死んでしまうこともあります。前世での行いによって刀などで斬られて命を失うこともあれば、火事で亡くなったり、水に溺れて命を落とす人も多くいます。しかし、たとえそのような亡くなり方をしても、日頃から念佛をとなえ、極楽へ往生したいという心を持っている人なら、息絶える時に、阿弥陀様が観音菩薩と勢至菩薩と一緒にお迎えに来て下さるのだと信じて思い定めるべきです。

我々はどのようなタイミングで、また何が原因で命を落とすかわからない。だからこそ後世の安穏を願って念仏に励みなさいということですが、現代の人であれば、いつ命が終わるかわからないので悔いのないように日々精進しましょうと言い換えてもよいかもしれません。

備えは今から

今ある命は有難し。
どうぞその命を全うしてください。
そして後世の安穏のための準備を今から少しずつ始めてください。
命の終わりを思う時、念仏の声に自然と思いがこもることでしょう。

南無阿弥陀仏

「かせぎ」と「つとめ」—お盆雑考

もうすぐ8月が終わろうとしています。
今年のお盆の棚経では、お檀家の皆さんからたくさんのお話を聞かせていただきました。
健康不安の話、孫の推し活の話、親の介護の話、墓じまいを考えている友人の話などなど。

その中で、ある方から、「今年は町内会の役が回ってきた。これから数年、お祭りだなんだで忙しくなりそうだ」というようなことを伺いました。地域のために働くことは大切なことです。近年では、そうした役を断る人も増えてきていると言います。その方の地域でも、断った方がいたそうです。しかし、「でも誰かがやらないと、祭りもできないし、いろいろなことが回らないからね」とその人は受けることを決めたそうです。

文化人類学者の山口昌男(1931-2013)の本の中にこんな話がありました。

日本には「かせぎ」と「つとめ」というふたつの労働の観念があった。かつては、「かせぎ」がたくさんあっても、「つとめ」がなければ一人前と認められなかった。今は、「かせぎ」はいいかもしれないが、労働観念のなかから「つとめ」をなくしていまっている。人を見る目、社会人を見る目が「かせぎ」型になっている。

ここでいう「かせぎ」とは金銭のこと、「つとめ」とは困った時や必要な時まわりの人を助けること、といってよいかもしれません(本の中では、堤防の決壊、火事、凶作、干害、死人が出た、というとパッと出て行ってふんどし一丁で働くことが「つとめ」となっていましたが、平時にあっても回りを助けることと解釈できます)。

地域の役もまた「つとめ」のひとつと言えましょう。「かせぎ」には直結しないかもしれないけれど、共同体を維持するためには必要な労働です。共同体は地域だけではありません、家族もまた共同体です。家族は勝手に維持されているわけではなく、誰かが家族が家族であるために見えない働きをしているから維持されているのです。

私たちの社会にはこうした「つとめ」が至る所にあることでしょう。「かせぎ」の場である職場にも「つとめ」はあるでしょう。見えない労働に感謝をすることはもちろんですが、自分自身もまた誰かのために見えない労働をすることが大切です。

自分だけよければいいと考えるのは、仏教の利他の精神にも反します。

「かせぎ」だけに心を奪われ、「つとめ」を忘れてしまうことがないよう気を付けたいなと思った今年のお盆でした。

南無阿弥陀仏

令和7年盂蘭盆会・新盆家供養のご報告

今年も8月13日18時30分より、盂蘭盆会および新盆供養法要を行いました。新盆家、一般檀信徒あわせて50名ほどのご参加をいただき、皆さんと一緒におつとめすることができました。

お盆は「盂蘭盆」(うらぼん)の略語といわれています。盂蘭盆はサンスクリット語の「ウランバナ」の音を漢字にあてたもので、もともとは「逆さ吊り」という意味です。富士・富士宮地区では8月13日から16日がお盆の時期にあたり、仏壇をきれいにし、僧侶による棚経を受け、ご先祖様をお迎えする準備を行います(8月盆と7月盆の違いについては【こちら】をご覧ください)。

今日のお盆の由来が記されている『盂蘭盆経』には、以下の様な逸話が説かれています。

お釈迦様の弟子のひとりに、神通力を持つ目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がいました。ある日、亡き母がどうしているかと、神通力を使って母親の姿を探したところ、餓鬼道に堕ち、飢えと渇きに苦しむ母親の姿が見えました。神通力で食べ物や飲み物を届けようとしますが、母親の元に届く前に火に包まれてしまい、母親を助けることはできません。何とか救いたいと願った目連尊者は、師匠であるお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は、雨期に行われる修行を終えた修行僧であればその徳をもって母親を救えるかもしれない、したがって彼らに食べ物や飲み物をささげるよう目連尊者に告げました。そして、修行僧たちにもまた、この施しを受ける際には、施主家の七代の父母のために祈りを捧げるようにと伝えました。目連尊者はその通りに修行僧たちを供養し、その功徳によって目連尊者の母親は餓鬼道から救われました。

当山では毎年8月13日に盂蘭盆会を厳修し、とくにその年に初めてお盆を迎える新しい仏様の供養をねんごろに行っています。また、新盆家には早めにお集まりいただき、ご供物を一緒に袋詰めしたあと、参加者一人ひとりにお渡しし、供養のための施しをしていただきました。

ご供物には飲み物やゼリーなどを用意いたしましたが、これらは新盆家からの志納(お布施)で用意いたしました。まさに目連尊者の逸話にならった供養の在り方です。新たにお盆を迎える一切の精霊はきっと極楽に救い摂られることでしょう。

暑い中、法要にご参加くださった皆様、お手伝いいただいた新盆家の皆様、誠にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【8月の言葉】仏縁を継ぐ夏休み

8月はお盆月。私たちへと受け継がれた仏さまやご先祖様とのご縁を、次の世代にも伝えていきましょう。
During Obon, pass along to children what we have received from our ancestors.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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法源寺のある富士地区は間もなくお盆を迎えます。地域によっては7月にお盆を迎えるところもありますが、これは新暦(7月)で行うか、旧暦(8月)で行うかの違いによるものです(※詳しくは過去の記事「お盆は7月?8月?」をご覧ください)。

当山では、8月13日の夜に新亡(新しくお盆を迎える故人)の供養とあわせて、施餓鬼会を厳修しています。また、8月8日から14日にかけ、檀信徒宅の棚経(仏壇回向)にうかがいます。

夏休みなので、棚経に行くと仏壇前で一緒に手を合わせてくれるお子さんたちも多くいらっしゃいます。帰省したお孫さんと一緒にお盆のお墓参りにいらっしゃる方も多くお見えになります。また、お盆明けには、数名のお子さんと一緒に「こどもおてつぎ奉仕団」として知恩院に登嶺いたします。こうして考えると、8月は何かと仏事に触れやすい時期といえます。

仏縁とは、仏様との縁のこと。私たちを仏道修行に導き、供養の心を育てる機会だと思っていただければよいかと思います。

帰省した時、親戚一同が集まり、おじいさんおばあさんからお話を聞いたり、親戚が語るひいおじいさんやひいおばあさんのエピソードに思いを馳せたりすることもあるかもしれません。自分のルーツを再確認し、こうしたいのちのつながりの中に、自分が位置付けられるということを実感するのもまた、私たちを仏縁に誘う機会といえるでしょう。自分は一人で生まれたわけではない、命のつながりの中で、自分の命を授かったと思えば、その代々のつながりに対して自然と手が合わさるはずです。

しかし、大人がそうした機会を作らなければ、子どもたちは触れることすらできません。経験がなければ、仏様との縁や供養の心が育つはずもありません。

仏縁を継ぐ夏休み

親から子へ、子から孫へ

夏休みはいろいろな体験、経験を積む良い機会です。海外旅行で異文化体験もよいでしょう。国内で様々なアクティビティに挑戦するのも楽しいでしょう。でも、お出かけのうちの1日でも2日でも構いません。仏縁を継ぐために、ぜひ一緒に、お墓参り、お寺参りをなさってください。きっとそれは、いのちのバトンを受け取った者の責務なのではないかと思います。

南無阿弥陀仏

中島地蔵尊の祭礼

7月20日、中島地区にある子育地蔵尊の祭礼で、子どもたちの健やかな成長を願う法要を行いました。

中島地区は法源寺から1㎞ほど離れたところにありますが、この子育地蔵を安置するお堂とその境内は、法源寺の飛び地境内になっています。この地蔵尊とのご縁は、時を遡ること昭和6年、当地区住まいの檀家さんが自宅に安置していた地蔵菩薩を祀るため、宅地及び堂宇を菩提寺である法源寺に寄進されたのがきっかけとうかがっております。

以来94年にわたって、中島子育地蔵尊は地域の子どもの守り仏として大切に祀られ、代々法源寺の僧侶が縁日に御祈願のお参りをしてきました。また、この日にあわせてお祭りが行われ、子供たちが叩く太鼓が町内を巡回します。

法要後の法話は、参加する子供たち向けに六地蔵のお話をしました。

お地蔵さんは六体セットであることが多いのですが、これは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻する迷いの衆生を救うため、導くためといわれています。私たちは生まれ変わり、死に変わりしながら、この六つの世界をめぐるといわれております。

責め苦を味わい心身ともに辛く苦しい地獄道、貪りの心を離れられない餓鬼道、理性的な行動ができない畜生道、いがみ合い争う心が収まらない修羅道、私たちが暮らす人間道、互いを慈しみ合い楽しく仲良く暮らす天道、それぞれの世界はこのようなものですが、私たちと全く別のところにあるわけではありません。普段の生活を振り返ってみれば、私たち自身の心の中にもこれら六つの世界があるといってよいでしょう。

そうしたとき、正しい方向へ導いてくれるのがお地蔵様です。お地蔵さまはさまざまな姿に化身して人々を救うとされています。ひょっとしたら、みなさんの周りにいるおじさん、おばさんがお地蔵さんかもしれません。

こうした地域のお祭りが、見守りの場をつくることに役立ち、子供たちの健やかな成長を助ける機会ともなります。

子どもの数が減ってきてはいますが、ぜひ継続していきたい大切な伝統だと思います。

南無地蔵尊

夏野菜の収穫―支え、支えられ

今年の夏はナスが豊作です。

法源寺農園部をはじめてから5年目に突入しまして、だいぶ季節ごとの野菜の管理も慣れてきました。お手伝いに来る若者たちも、最初はNPOの支援を受けて自立を目指す側だった人が、サポーターとしてほかの若者の支援に回るようになり、その一環で一緒に来てくれたりしています。

支えてもらった人が今度は支える側に回る。

素敵な循環が育まれています。

今年は、ナス以外にも、ズッキーニ、キュウリなどを植え、みなそれぞれに収穫の時期を迎えています。そうしたわけで、先日はお盆前に剪定も兼ね、たくさん収穫しました。また、畝まわりに生えた雑草を取るのも手伝ってもらいました。

夏の畑は油断すると雑草がすぐ生えてきてしまいます。若者たちの手がなければここまで管理することはできなかったでしょう。本当にありがたいことです。

人は常に強い個でいられるとは限りません。時には助け、時には助けられ、互いに支え合っていくことが生きるうえではとても大切です。あらゆるものは相互に依存し合って存在している。仏教でいうところの「縁起」ですね。

農園部の活動は若者たちの居場所になりつつありますが、その若者たちによって農園部も支えられているのです。

さぁお盆の準備を始めましょう。

南無阿弥陀仏

【7月の言葉】守られて 導かれて 救われて

仏さまは、お念仏をとなえる私たちを見守り、導き、
苦しみのない世界へお救いくださります。
As we practice Nenbutsu, we are protected, guided, and saved by Amida Buddha.
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浄土宗月訓カレンダーの7月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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信号待ちで木陰を探す季節がやってきました。
この暑さで体調を崩されていませんでしょうか。

先日、所用で浅草寺さまにうかがう機会がございました。浅草寺の境内は、それはもう大変な賑わいで、大勢の観光客、特に外国からのお客様でにぎわっていました。

浅草寺と言えば雷門、五重塔、そして本堂が有名ですが、その境内には多くのお堂があり、さまざまなお地蔵さまが祀られていることは意外と知られていません。これまで多くの人が願いを込め造立してきたのですが、その中には子供を抱えた母親姿のお地蔵さんがあります。母子地蔵尊と呼ばれるこのお地蔵さまは、満州からの引き揚げ途中に命を落とした人々を供養するために漫画家のちばてつやさんがデザインしたものとして知られています。

こうした仏さまが境内のそこかしこにあり、訪れる人を見守っているのですが、写真映えスポットを探す観光客にはその存在はあまり知られていません。

私たちも実は同じようなものです。日々の生活に追われあまり意識が向かないこともありますが、仏さまは常に私たちを見守っていてくださいます。その仏さまは、阿弥陀様であり、極楽浄土にいるご先祖様です。

私たちが悩んでいる時、困っている時、つらい時、寂しい時、悲しい時、本当はそばにいて見守っていて下さるのです。そして、あるべき方向に導いてくださいます。
自分一人で生きているつもりになっているうちはなかなか気づけません。しかし、見守られていること、導かれていることに気づけたとき、私たちは「私はひとりじゃない」と安心感を覚えるのではないでしょうか。
それがまさに「救われる」ということにほかなりません。

守られて 導かれて 救われて

さて、浅草寺本堂内陣の柱には、向かって右に「佛身円満無背相」、左に「十方来人皆対面」という偈文が掲げられています。これは、善導大師の『般舟讃』に示された句で、「仏様の体は円満にして背中の姿(背を向けること)はなく、あらゆる人に対して正面に向き合ってくださる」という意味です。

浅草寺さまのご本尊は観音様ですが、観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲を体現する化身として知られています。したがって、『般舟讃』に示された偈文は、阿弥陀様が私たちにしっかりと向き合ってくださっている、見守っていてくださっているということを広く示しています。

あとは私たちが、その見守りと導きに気づけるかどうか…
安らぎという救いは、気づくことから始まるのかもしれません。

南無阿弥陀仏

【6月の言葉】自利利他

他者を思いやる行動は、自身の幸せにつながります。
Helping others helpes ourselves.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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「自利」とは、自らを利すること。
「利他」とは、他を利すること。
この二つを合わせて「自利利他」と言います。

より仏教的に言えば、自利とは自ら悟りを求め修行に励むこと。
利他とは他者を思って尽くすこと。

さらに浄土宗的に解釈するなら、自利とは極楽往生を願い念仏に励むこと、利他とは共に往生を願い自らの功徳を振り向けることといってよいかもしれません。

自利利他は大乗仏教の中心的な理念のひとつといわれています。
これらは車の両輪のようなものでどちらが欠けても前に進むことはできません。
どちらも同じくらい大切なものです。

体調の悪い時に周囲に気遣うのが難しいように、自分が満たされ落ち着いていなければ、他者を思いやることはできません。今風の言葉で言えば「セルフケア」です。社会的な活動をするために、自分自身を整えることはとても大切ですが、整った自分が誰のために何をするのかも同じくらい大切です。

現代社会は、「自分さえよければ」「他人は他人」となりがちです。
しかし、こうした考えは、人と人との分断を生み、結果として孤独と不安を生み出します。私たちは相互関係に生きる存在として、自分さえよければよい、という考え方を離れなければなりません。自分のことだけしか考えないのは、たんなる「利己」です。

また、利他の対象は、現世に生きる者だけでなく、過去生きていた人たちも含まれます。

たとえば、浄土宗のご法事では、みなさん一生懸命お念仏をおとなえします。この時、念仏によって自分が得られる功徳を他者(故人)に振り向けることで後生の安穏を願います。これを「回向」(えこう)と言います。

自利利他

わずか四文字のなかには、実に深い意味が込められています。

今月の言葉を思い浮かべながら、自分も大事に、他人も大事に過ごしてみてください。
きっとそれが仏教的な生き方を実践するということになるのだと思います。

南無阿弥陀仏

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