【1月の言葉】良い目標は この一年を輝かす

志高く日々を大切に過ごせば、充実した一年となるでしょう。
Set worthwhile goals and works toward them daily, and thi year will be fulfilling.
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浄土宗月訓カレンダーの1月の言葉。
字は大本山善導寺第68世法主日下部匡信台下の揮ごうです。
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一年の計は元旦にあり、とはよく言うものです。
みなさんは、2026年、どのような年にしたいですか?
今年は午年です。力強く駆け抜ける馬は、飛躍や前進の象徴として親しまれてきました。
飛躍や前進を願って、挑戦する年にしたいと思う人もいるのではないでしょうか。
受験や就職など大きな勝負を目前に控えた人もいるかもしれません。

午年にちなんで「うまくいく」ことを願う人も多いと思います。
うまくいくことに越したことはありませんが、物事は必ずうまくいくとは限りません。
むしろ、うまくいかないときにこそ、その人の真価が問われます。

他人や環境のせいにして掲げた目標を捨ててしまうのか
失敗を糧に工夫と努力で再度目標に立ち向かうのか

松下村塾で維新の志士たちを多く育てた吉田松陰は次のような言葉を残しています。

夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし、
故に夢なき者に成功なし。

ここでいう夢は「目標」と置き換えてもよいでしょう。
目標は掲げただけでは叶いませんが、目標を掲げることで「こうありたい」という理想を描くことができます。
理想を具体的に描ければ、そのためにやることをリスト化することができます。
やることが明確になったらあとは、ひとつづつこなしていけばよいのです。
やるべきことを成せば、おのずと目標は叶うもの。

吉田松陰の教えは、目標を具体的なステップに分解して実行しようというものでした。
しかし、夢なき者に成功なし、と最後にあるように、まずは目標を持つことが大切です。

良い目標は この一年を輝かす

あなたの今年の目標は何でしょう?
目標を掲げることで、日々の生活が充実することでしょう。
きっとあなたの一年をより良いものに導いてくれるに違いありません。

南無阿弥陀仏

【12月の言葉】我行精進 忍終不悔

自分が為すべきことに全力で取り組んだ時、
たとえ結果がどうであれ、後悔はないものです。
When you have done your best, there are no regrets.
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浄土宗月訓カレンダーの12月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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今月の言葉は『無量寿経』の中の一説「我行精進 忍終不悔」です。経典の一節ですので、あまり聞きなれない言葉かもしれません。これは阿弥陀如来がまだ修行中の身にあった頃、多くの人を救う仏となるために「どんなにつらいことにも耐え忍び、修行に励んで、決して後悔することはない」と誓った偈文で、ここには多くの衆生を救いたいという強い決意が表れています。

私たちは、結果が得られやすいことには取り組みますが、どうなるかわからないものに一生懸命汗をかいて取り組むということをついつい嫌がってしまいます。かけたコストが回収できないなら最初からやらないほうがよいということですが、損得勘定で物事を判断するとついそうした姿勢になりがちです。

努力は必ず報われるとは限りませんが、成功した方は必ず努力をしています。たとえ成果が出なくても、まっすぐに向き合い、努力をしたという経験は何物にも代えがたい財産となるでしょう。

仏教詩人の坂村真民の言葉に「念ずれば花ひらく」というものがあります。
有名な言葉ですが、これは実は詩のタイトルでその先に続く文があります。
以下に紹介しましょう。

念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころか
となえるようになった
そうしてそのたび
私の花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった

「念ずれば花ひらく」は真民の母親がよく口にしていた言葉だそうですが、これはただ念じさえすれば、花がひらく(成果が出る)というわけではありません。

念という字は、「今」と「心」という字から成ります。今この時を心に懸け、一瞬一瞬を精一杯生きることです。精一杯生きるとは、手を抜かない、努力を怠らないということです。つまり、心の中で念じて夢がかなうのを待っているのではなく、日々を精一杯生きていけば、夢や目標がかなうという意味です。

真民は次の詩も残しています。

よくやった
よくやったと
いつの日か
世尊にほめていただく
詩人になろう
そう念じて
その日
その時を
充実させて生きてゆこう
点火された灯りを
消さないように
足もとをよく見つめ
懈怠なく
一歩一歩
世尊に接近してゆこう

世尊とはお釈迦様のことです。懈怠とは「けたい」と読み、なまけることです。特に仏教では、悪を断ち切り、善を修する努力を尽くしていないことを懈怠と言います。

真民は、いつの日かお釈迦様に褒められる詩人になりたいという願いを、その日その時を一生懸命生きることで叶えようという決意を表明しています。ここでも願いを念じてはいますが、その達成のために努力を怠らないことが示されています。

我行精進 忍終不悔

私たちはなかなか阿弥陀様のようにはいかないかもしれませんが、一念発起し頑張る姿は尊いものです。

まずは私たち自身が、目標に向かって精一杯努力し、汗を流すことの格好良さを次世代を担う子や孫に伝えていけたらきっと社会はより良くなるのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏

【11月の言葉】見えないけれど 大切なもの

少し、心の眼、心の耳を研ぎ澄ましてみて!
目に見えないものを感じる豊かさを大事にしよう
Not everything that is important can be seen.
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浄土宗月訓カレンダーの11月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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信州・善光寺には「お戒壇巡り」と呼ばれる体験があります。真っ暗闇の回廊を手探りで進み、極楽の錠前を触れることで、現世の罪が滅し、極楽往生が叶うとされているものです(京都・清水寺にもありますね)。光のない世界で、触覚や聴覚を頼りに進むのは至極困難なことです。

実際、人の情報判断の8割は視覚から得ていると言われます。言い換えれば、私たちは見えるものに頼っている、ということです。

しかし、目に見えるものがすべてではありません。また目に見えているからと言ってそれが正しい姿であるかどうかはなかなか判断しづらいものです。ましてや、至らぬ私たちですから、見えていると思いこんで見失っていることもあれば、見えているからこそ惑わされることもあります。

視覚情報に頼り切っているものですから、見えないものを大切に扱うということもおろそかにしがちです。見えるものにしか価値を見出せなくなっている病とでもいえるでしょう。

先日、東北地方のある山間の町の古老からこんな話を聞きました。

集落の共同墓地が町のはずれにあり、そこには100基ほどのお墓がありました。どの地域でもそうですが、このあたりも年々人口が減り、現在は数えるほどの人で管理しているとのこと。維持管理のため、地域外に住む人からも墓地の清掃や整備のため1,000円ほどの年間管理料をお願いしていたところ、ある年、「このお金がどのように使われているのか会計報告をしてほしい」と言われたそうです。それ以来、事務仕事は増えたが、領収書をつけ、会計報告を出すようにしているとのことでした。

1,000円だろうと貴重なお金ですので何に使われているかを知ろうとするのは普通のことです。しかし、会計報告があれば適正に使われているかが本当にわかるのでしょうか。紙の報告書より、実際にお墓参りに行く方がよっぽどよくわかるでしょう。墓地の通路に雑草がない、落ち葉や倒木がない、トイレが設置されている、駐車場の入り口が舗装されているなど、気持ちよくお参りできる環境が整えられていることに気づくはずです。そして、それはその地に住み続け、その場を守り続けている人がいるからこそ可能であるということも。

書面で「見える化」することに慣れていると、こうした発想になるのかもしれません。しかし、その「見える化」は果たして物事の実態が見えていることになるのでしょうか。

ご先祖様しかりです。ご法事やお墓参りの際、「先祖」にどのくらい思いを向けられるでしょうか。直接、顔を見たことがある祖父、祖母はイメージがわきやすいですが、祖父、祖母にも父や母、祖父、祖母がおります。そして、その祖父の祖父、祖父の祖母、祖母の祖父、祖母の祖母にもそれぞれ父や母がおり・・・。こうして10代さかのぼると1024人になりますが、このうち一人でも欠けると今の私たちはこの世におりません。見たことはないけど、存在はしている自分のルーツの有り難さにどれほどの人が手を合わせられているでしょうか。

見えないけれど 大切なもの

「かんじんなことは 目に見えないんだよ」

フランスの作家サン=テグジュペリ作『星の王子さま』の有名な一節です。
洋の東西を問わず、大切なものは目でとらえようとするのではなく、思いを巡らせ、心で感じなければ受け止められないと言われ続けてきたいうことでしょう。

あなたにとって「見えないけれど大切なもの」は何ですか?
秋の夜長にぜひゆっくり考えてみてください。

南無阿弥陀仏

十夜法要をおつとめしました

10月14日14時より、本堂にて十夜法要を厳修いたしました。

十夜法要とは、浄土宗に伝わる念仏会で、当山の開山上人である鎌倉光明寺第九世・観譽祐崇上人が、室町時代に後土御門天皇の勅許を得て浄土宗寺院で行うことが許されるようになった由緒ある法要です。

この十夜法要は『無量寿経』の一節にある教えを実践したものです。そこには、「娑婆世界で十日十夜の間、善行を修めることは、仏の世界で千年にわたって善行に励むよりもすぐれている」と説かれています。

法源寺では今年も大勢の檀信徒の皆様にお参りいただき、功徳を積んでいただきました。

法要後は、片山善博先生をお招きし、「人口減少下の日本~活気ある地域をつくるには何が必要か~」というテーマでお話しいただきました。日本全体で人口減少局面に突入し、特に地方都市では人口減少が年々進んでいます。しかし、こうした中にあっても、生産性を向上させることで対応できるとのこと。そして、生産性向上のためには、いきいきと働ける環境を整えること、性別や障害の有無で役割や能力を決めつけないこと、男性も育休をとり子育てに参加することなどが肝要であるとお話しくださいました。

仏教では、偏見や固定概念を離れて物事をありのままでとらえることを大事と説きます。まさに、こうした教えに通じるものが社会の維持発展の役立つものだとあらためて感じるお話でした。

なお、講演会には檀信徒以外の方の参加もあり、大変にぎやかな十夜法要となりました。

ご参加くださった皆様、運営にご尽力くださった総代、世話人の皆様、ありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【10月の言葉】右は仏 左は私 合す掌

合掌する左右の手、それは、仏様に対する深い思いの表現。
その時、平和でおだやかな時に抱かれます。
When you bring your hands together in prayer,
you bring the Budda and yourself together.
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浄土宗月訓カレンダーの10月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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今から20数年前、初めての海外旅行はインドの仏跡巡拝でした。
仏跡とはお釈迦様にまつわる場所のことで、お生まれになったルンビニ、さとりを開かれたブッダガヤ、初めて法を説いたサ-ルナート、そして涅槃に入られたクシナガラの四つを四大聖地と呼びます(このうちルンビニはネパールにあります)。

インドでは毎日カレーを食べましたが、インドの方は手で召し上がります。そして、使うのは決まって右手だけです。なぜなら、インドでは右手は清浄な手、左手は不浄な手として認識されているからです。こうした、手に対する浄不浄観はヒンドゥー教由来のものです。ヒンドゥー教の原型は、バラモン教と言われていますが、バラモン教は古代インドから多くの人々の生活や思想に影響を与えていました。合掌もその一つです。

合掌は、右手はさとりを開いた迷いなき仏を、左手が迷いの世界に生きる私たち衆生を表し、この浄なる右手、不浄なる左手をあわせることで、仏さまと私たちが一体となることを願う姿を象徴すると言われます。

その昔、仏壇屋さんのCMで「お手てのしわとしわを合わせて“しあわせ”、なーむー」というものがありました。今でも合掌する時というのは、仏事以外でも、敬意や感謝を示すときに使います(ときには謝罪も?)。仏と私が一体となった姿ですので、いくら至らない私たちでも仏の力で心が清らかになりますから、自然と穏やかな心になるものです。

右は仏 左は私 合わす掌

10月はお十夜シーズン。浄土宗の各寺院で十夜法要が営まれます。
十夜法要とは、十日十夜にわたって行う念仏会のことで、古くは室町時代、鎌倉光明寺九世であった観譽祐崇上人によって浄土宗にもたらされた由緒ある法要です。この季節、きっとお寺にお参りして念仏を称える機会も多くあることでしょう。

合す手と手に御仏を感じながら、御仏の名を声に出す。きっと心は穏やかになるに違いありません。合掌して念仏を称えるこの素晴らしい勝縁に、ぜひともお参りいただければと思います。

南無阿弥陀仏

【9月の言葉】備えは今から

思わぬ事態が起きてから対応するのは簡単ではありません。日々準備を積み重ねていくことが大切です。
The time to get ready is now.
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浄土宗月訓カレンダーの9月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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9月1日は防災の日。各地で防災訓練が行われます。この日が防災の日となったのは、1923年(大正12年)のこの日に関東大震災が起きたことに由来するそうです。ちなみに法源寺前住職の功旭上人はこの前日、1923年8月31日に生まれました。マグニチュード7.9の大地震の揺れは、ここ富士でも感じられたようで、当時、本堂裏手にあった竹やぶに、前住職の母が生まれたばかりのわが子を抱えて逃げ込んだという話を伝え聞いております。

天災は忘れたころにやってくるとはよく言ったもの。日本は古来より、地震や津波、台風など自然災害に悩まされてきました。そうした、一大事のために日頃から備えをしておくことは大切です。

私たちが生きていく中においても一大事はあります。病気やケガも一大事ですが、一番大きなことは、この世の命を全うする時、すなわち命尽きる時です。

私たちは生まれる時代や国、家を選ぶことはできませんが、この世に生を受けたものにとって平等に与えられた条件が2つあります。

ひとつは一日が24時間であること。
もうひとつは命に終わりがあること。

お金持ちも貧しい人も、学のある人もない人も、優しい人も、いつも怒っている人も一日の長さは変わりません。そして、いつ終わるかはわかりませんが、すべての人には命の終わりがあります。しかし、日常の中で「死」を考えて生きることは少ないのではないでしょうか。

最近、ある方からこんな話を聞きました。

父親を病院に連れて行ったら緊急入院となり、そこで経管栄養(鼻あるいは口から胃まで挿入されたチューブで栄養をとること)となってしまった。誤嚥性肺炎のおそれがあることから、もう口から食事をとることができない。親父の最後の食事は、病院までの道すがら小腹ふさぎに買ったコンビニのいなり寿司になってしまった。すまないことをしてしまった、と。

私たちは明日も当たり前に来ると思っています。ご飯もまた食べられると思っているでしょう。その方も、ちょっと病院で見てもらったら帰りにおいしいものでも食べて帰ってこようと思っていたかもしれません。今の、この一食が、口から食べる最後の食事になるとは思っていなかったことでしょう。

終わりがわかれば備えもできますが、終わりは突然訪れるもの。

法然上人も以下のように言っています。

人の死の縁は、かねて思うにもかない候わず。にわかに大路みちにて、終わる事も候。大小便利のところにて死ぬる人も候。前業逃れがたくて、太刀かたなにて命を失い、火に焼け、水に溺れて、命を滅ぼすたぐい多く候えば、さようにて死に候とも、日頃の念佛申して極楽へ参る心だにも候人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀・観音・勢至、来たり迎え給うべしと信じおぼしめすべきにて候なり。

(現代語訳)
人が死ぬ時というのは、普段の思い通りにはいかないものです。道を歩いていて突然倒れて死んでしまうこともあれば、お手洗いで用を足している最中に死んでしまうこともあります。前世での行いによって刀などで斬られて命を失うこともあれば、火事で亡くなったり、水に溺れて命を落とす人も多くいます。しかし、たとえそのような亡くなり方をしても、日頃から念佛をとなえ、極楽へ往生したいという心を持っている人なら、息絶える時に、阿弥陀様が観音菩薩と勢至菩薩と一緒にお迎えに来て下さるのだと信じて思い定めるべきです。

我々はどのようなタイミングで、また何が原因で命を落とすかわからない。だからこそ後世の安穏を願って念仏に励みなさいということですが、現代の人であれば、いつ命が終わるかわからないので悔いのないように日々精進しましょうと言い換えてもよいかもしれません。

備えは今から

今ある命は有難し。
どうぞその命を全うしてください。
そして後世の安穏のための準備を今から少しずつ始めてください。
命の終わりを思う時、念仏の声に自然と思いがこもることでしょう。

南無阿弥陀仏

「かせぎ」と「つとめ」—お盆雑考

もうすぐ8月が終わろうとしています。
今年のお盆の棚経では、お檀家の皆さんからたくさんのお話を聞かせていただきました。
健康不安の話、孫の推し活の話、親の介護の話、墓じまいを考えている友人の話などなど。

その中で、ある方から、「今年は町内会の役が回ってきた。これから数年、お祭りだなんだで忙しくなりそうだ」というようなことを伺いました。地域のために働くことは大切なことです。近年では、そうした役を断る人も増えてきていると言います。その方の地域でも、断った方がいたそうです。しかし、「でも誰かがやらないと、祭りもできないし、いろいろなことが回らないからね」とその人は受けることを決めたそうです。

文化人類学者の山口昌男(1931-2013)の本の中にこんな話がありました。

日本には「かせぎ」と「つとめ」というふたつの労働の観念があった。かつては、「かせぎ」がたくさんあっても、「つとめ」がなければ一人前と認められなかった。今は、「かせぎ」はいいかもしれないが、労働観念のなかから「つとめ」をなくしていまっている。人を見る目、社会人を見る目が「かせぎ」型になっている。

ここでいう「かせぎ」とは金銭のこと、「つとめ」とは困った時や必要な時まわりの人を助けること、といってよいかもしれません(本の中では、堤防の決壊、火事、凶作、干害、死人が出た、というとパッと出て行ってふんどし一丁で働くことが「つとめ」となっていましたが、平時にあっても回りを助けることと解釈できます)。

地域の役もまた「つとめ」のひとつと言えましょう。「かせぎ」には直結しないかもしれないけれど、共同体を維持するためには必要な労働です。共同体は地域だけではありません、家族もまた共同体です。家族は勝手に維持されているわけではなく、誰かが家族が家族であるために見えない働きをしているから維持されているのです。

私たちの社会にはこうした「つとめ」が至る所にあることでしょう。「かせぎ」の場である職場にも「つとめ」はあるでしょう。見えない労働に感謝をすることはもちろんですが、自分自身もまた誰かのために見えない労働をすることが大切です。

自分だけよければいいと考えるのは、仏教の利他の精神にも反します。

「かせぎ」だけに心を奪われ、「つとめ」を忘れてしまうことがないよう気を付けたいなと思った今年のお盆でした。

南無阿弥陀仏

令和7年盂蘭盆会・新盆家供養のご報告

今年も8月13日18時30分より、盂蘭盆会および新盆供養法要を行いました。新盆家、一般檀信徒あわせて50名ほどのご参加をいただき、皆さんと一緒におつとめすることができました。

お盆は「盂蘭盆」(うらぼん)の略語といわれています。盂蘭盆はサンスクリット語の「ウランバナ」の音を漢字にあてたもので、もともとは「逆さ吊り」という意味です。富士・富士宮地区では8月13日から16日がお盆の時期にあたり、仏壇をきれいにし、僧侶による棚経を受け、ご先祖様をお迎えする準備を行います(8月盆と7月盆の違いについては【こちら】をご覧ください)。

今日のお盆の由来が記されている『盂蘭盆経』には、以下の様な逸話が説かれています。

お釈迦様の弟子のひとりに、神通力を持つ目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がいました。ある日、亡き母がどうしているかと、神通力を使って母親の姿を探したところ、餓鬼道に堕ち、飢えと渇きに苦しむ母親の姿が見えました。神通力で食べ物や飲み物を届けようとしますが、母親の元に届く前に火に包まれてしまい、母親を助けることはできません。何とか救いたいと願った目連尊者は、師匠であるお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は、雨期に行われる修行を終えた修行僧であればその徳をもって母親を救えるかもしれない、したがって彼らに食べ物や飲み物をささげるよう目連尊者に告げました。そして、修行僧たちにもまた、この施しを受ける際には、施主家の七代の父母のために祈りを捧げるようにと伝えました。目連尊者はその通りに修行僧たちを供養し、その功徳によって目連尊者の母親は餓鬼道から救われました。

当山では毎年8月13日に盂蘭盆会を厳修し、とくにその年に初めてお盆を迎える新しい仏様の供養をねんごろに行っています。また、新盆家には早めにお集まりいただき、ご供物を一緒に袋詰めしたあと、参加者一人ひとりにお渡しし、供養のための施しをしていただきました。

ご供物には飲み物やゼリーなどを用意いたしましたが、これらは新盆家からの志納(お布施)で用意いたしました。まさに目連尊者の逸話にならった供養の在り方です。新たにお盆を迎える一切の精霊はきっと極楽に救い摂られることでしょう。

暑い中、法要にご参加くださった皆様、お手伝いいただいた新盆家の皆様、誠にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【8月の言葉】仏縁を継ぐ夏休み

8月はお盆月。私たちへと受け継がれた仏さまやご先祖様とのご縁を、次の世代にも伝えていきましょう。
During Obon, pass along to children what we have received from our ancestors.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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法源寺のある富士地区は間もなくお盆を迎えます。地域によっては7月にお盆を迎えるところもありますが、これは新暦(7月)で行うか、旧暦(8月)で行うかの違いによるものです(※詳しくは過去の記事「お盆は7月?8月?」をご覧ください)。

当山では、8月13日の夜に新亡(新しくお盆を迎える故人)の供養とあわせて、施餓鬼会を厳修しています。また、8月8日から14日にかけ、檀信徒宅の棚経(仏壇回向)にうかがいます。

夏休みなので、棚経に行くと仏壇前で一緒に手を合わせてくれるお子さんたちも多くいらっしゃいます。帰省したお孫さんと一緒にお盆のお墓参りにいらっしゃる方も多くお見えになります。また、お盆明けには、数名のお子さんと一緒に「こどもおてつぎ奉仕団」として知恩院に登嶺いたします。こうして考えると、8月は何かと仏事に触れやすい時期といえます。

仏縁とは、仏様との縁のこと。私たちを仏道修行に導き、供養の心を育てる機会だと思っていただければよいかと思います。

帰省した時、親戚一同が集まり、おじいさんおばあさんからお話を聞いたり、親戚が語るひいおじいさんやひいおばあさんのエピソードに思いを馳せたりすることもあるかもしれません。自分のルーツを再確認し、こうしたいのちのつながりの中に、自分が位置付けられるということを実感するのもまた、私たちを仏縁に誘う機会といえるでしょう。自分は一人で生まれたわけではない、命のつながりの中で、自分の命を授かったと思えば、その代々のつながりに対して自然と手が合わさるはずです。

しかし、大人がそうした機会を作らなければ、子どもたちは触れることすらできません。経験がなければ、仏様との縁や供養の心が育つはずもありません。

仏縁を継ぐ夏休み

親から子へ、子から孫へ

夏休みはいろいろな体験、経験を積む良い機会です。海外旅行で異文化体験もよいでしょう。国内で様々なアクティビティに挑戦するのも楽しいでしょう。でも、お出かけのうちの1日でも2日でも構いません。仏縁を継ぐために、ぜひ一緒に、お墓参り、お寺参りをなさってください。きっとそれは、いのちのバトンを受け取った者の責務なのではないかと思います。

南無阿弥陀仏

中島地蔵尊の祭礼

7月20日、中島地区にある子育地蔵尊の祭礼で、子どもたちの健やかな成長を願う法要を行いました。

中島地区は法源寺から1㎞ほど離れたところにありますが、この子育地蔵を安置するお堂とその境内は、法源寺の飛び地境内になっています。この地蔵尊とのご縁は、時を遡ること昭和6年、当地区住まいの檀家さんが自宅に安置していた地蔵菩薩を祀るため、宅地及び堂宇を菩提寺である法源寺に寄進されたのがきっかけとうかがっております。

以来94年にわたって、中島子育地蔵尊は地域の子どもの守り仏として大切に祀られ、代々法源寺の僧侶が縁日に御祈願のお参りをしてきました。また、この日にあわせてお祭りが行われ、子供たちが叩く太鼓が町内を巡回します。

法要後の法話は、参加する子供たち向けに六地蔵のお話をしました。

お地蔵さんは六体セットであることが多いのですが、これは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻する迷いの衆生を救うため、導くためといわれています。私たちは生まれ変わり、死に変わりしながら、この六つの世界をめぐるといわれております。

責め苦を味わい心身ともに辛く苦しい地獄道、貪りの心を離れられない餓鬼道、理性的な行動ができない畜生道、いがみ合い争う心が収まらない修羅道、私たちが暮らす人間道、互いを慈しみ合い楽しく仲良く暮らす天道、それぞれの世界はこのようなものですが、私たちと全く別のところにあるわけではありません。普段の生活を振り返ってみれば、私たち自身の心の中にもこれら六つの世界があるといってよいでしょう。

そうしたとき、正しい方向へ導いてくれるのがお地蔵様です。お地蔵さまはさまざまな姿に化身して人々を救うとされています。ひょっとしたら、みなさんの周りにいるおじさん、おばさんがお地蔵さんかもしれません。

こうした地域のお祭りが、見守りの場をつくることに役立ち、子供たちの健やかな成長を助ける機会ともなります。

子どもの数が減ってきてはいますが、ぜひ継続していきたい大切な伝統だと思います。

南無地蔵尊

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