令和6年度 盂蘭盆会・新盆供養を行いました

今年も8月13日18時30分より、盂蘭盆会および新盆供養法要を行いました。

今年は本堂にエアコンが入りましたので、これまでとは違い快適な環境でのお勤めとなりました。導師や維那(お経の発声をする僧侶)の汗をぬぐう回数もぐっと減ったように思います。おかげさまで、新盆家、一般檀信徒あわせて50名ほどのご参加をいただき、皆さんと一緒におつとめすることができました。

お盆は「盂蘭盆」(うらぼん)の略語といわれています。盂蘭盆はサンスクリット語の「ウランバナ」の音を漢字にあてたもので、もともとは「逆さ吊り」という意味です。富士・富士宮地区では8月13日から16日がお盆の時期にあたり、仏壇をきれいにし、僧侶による棚経を受け、ご先祖様をお迎えする準備を行います(8月盆と7月盆の違いについては【こちら】をご覧ください)。

今日のお盆の由来が記されている『盂蘭盆経』には、以下の様な逸話が説かれています。

お釈迦様の弟子のひとりに、神通力を持つ目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がいました。ある日、亡き母がどうしているかと、神通力を使って母親の姿を探したところ、餓鬼道に堕ち、飢えと渇きに苦しむ母親の姿が見えました。神通力で食べ物や飲み物を届けようとしますが、母親の元に届く前に火に包まれてしまい、母親を助けることはできません。何とか救いたいと願った目連尊者は、師匠であるお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は、雨期に行われる修行を終えた修行僧であればその徳をもって母親を救えるかもしれない、したがって彼らに食べ物や飲み物をささげるよう目連尊者に告げました。そして、修行僧たちにもまた、この施しを受ける際には、施主家の七代の父母のために祈りを捧げるようにと伝えました。目連尊者はその通りに修行僧たちを供養し、その功徳によって目連尊者の母親は餓鬼道から救われました。

この逸話をもとに、当山では新盆家からの志納で飲み物を用意し、参加者にお配りしています。また、新盆家の皆様には法要前にお集まりいただき、袋詰めの作業を手伝っていただきました。

供養のための施しはまさに目連尊者のごとしです。新たにお盆を迎える一切の精霊はきっと極楽に救い摂られることでしょう。

暑い中、法要にご参加くださった皆様、お手伝いいただいた新盆家の皆様、誠にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【8月の言葉】墓掃除 清められるのは私

お盆の季節には、普段より一層ていねいに
お墓の掃除をしましょう。
きっと心も晴れやかになるはずです。
Cleaning your family’s grave will make your spirit lighter.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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今年もまもなくお盆がやってきます。

お盆といえばお墓参りのために故郷に帰るという人も少なくないでしょう。

しかし、最近は、わざわざ遠方のお墓にお参りに行くのが大変、墓地の管理が難しい、といった理由でお墓を移したり、場合によっては、墓じまいを検討したりする人もいるかもしれません。

また、墓じまいの背景には、少子化の中で一人しかいない子どもに、いくつもの墓を管理させるのは申し訳ない、子どもが結婚しておらず今後墓の継承が難しい、子どもはいるが女性のみで嫁いでしまったため自分の家の墓守をさせるわけにはいかない、などさまざまな事情が垣間見えます。

そのとき決まって使われるのが「子どもたちに迷惑をかけたくない」という表現です。しかし、遺された子にとってお墓の管理は「迷惑なこと」なのでしょうか。

実は、先日、墓じまいを取り止めたいという相談がありました。

その方は、一人っ子ですが、早くに両親を亡くされて、現在は遠方で一人暮らしをしています。お盆やお彼岸のたびにお墓参りに来ることは難しいのかもしれず、前々から墓じまいについてのご相談を受けていました。

ある日、折り入って相談があるとのことでお寺に来られました。いよいよお墓の整理をされるのかなと思っていましたが、話を聞けば、墓じまいを考え直したいとのお申し出でした。

現在、その方の生まれ育った実家はすでに処分してしまっています。いわば、両親との思い出が詰まった場所はもうありません。ここでお墓まで片づけてしまったら、両親とのつながりが絶たれてしまうと感じられたようで、考え直されたとのこと。

小さい頃はよく両親に連れられてお墓参りに来ていた、お墓参りの後はごほうびとしてアイスやお菓子を買ってもらっていた、というお話も聞かせていただきました。

場所としてのお墓だけでなく、お墓参りを通じた両親との会話や出来事が記憶に残っているようでした。

お墓を守り続けたいというお申し出はお寺にとってはありがたいことです。来られる時だけでよいのでぜひお参り下さい。そしてその時はお寺にもお立ち寄りください。とお伝えしました。

物理的な場所がなくても、心のつながりは持ち続けられるという人もいるかもしれません。しかし、「ここに来れば会える」という場所があることは、心理的なつながりをより強固なものにするでしょう。お墓はまさにそうした場所のひとつです。そういった場所を自分の一存で片づけてしまっていいのか、墓じまいの際はよく考え、話し合っておくことが必要なように思います。

さて、浄土宗で大事にしているお経の一つである『阿弥陀経』の中には、「倶会一処(くえいっしょ)」という言葉が出てきます。極楽浄土に往生した人は、極楽で仏さまや菩薩様に会えるだけでなく、先立った家族や友人とも再会できる、という意味ですが、亡くなった後だけでなく、生きているうちにも再会を感じられる場所があることは、現世を生きる私たちの(よすが)ともなります。

極楽で再会した時にあの人にどんなお土産話をもっていけるかなぁと、死んだら終わりではない死生観を持つことで私たちの生はより豊かになることでしょう。

墓掃除 清められるのは私

このお盆はそうしたことを思いながらぜひお墓を参りいただければと思います。

雑草を取り、墓石を洗い、お花と線香を供養し、手を合わせる。
きっと清々しい心持ちになれることでしょう。

でも暑いので熱中症にはくれぐれも気を付けてくださいね。

南無阿弥陀仏

【7月の言葉】周りを照らす人になろう

やさしい言葉やなごやかな表情などのささやかな心配りでも、接した相手には伝わります。
それは周りの人の笑顔にもつながっていくはずですよ。
Be someone who helps others.
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浄土宗月訓カレンダーの7月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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今回はお布施のお話をいたしましょう。

「布施」というと「葬儀や法事の際にお寺やお坊さんに渡すお金のこと」と思われる方も少なくないでしょう。本来の布施にはもう少し深い意味があります。

布施には、財施(ざいせ)法施(ほうせ)無畏施(むいせ)の3つがあります。

財施は、現代の「お布施」のイメージに最も近いかもしれません。お金や物品を必要としている人に提供をすることです。しかし、大事なのはその際に見返りを求めないこと。“これをしてくれたのでいくら払う”といったようなサービスの対価ではありません。

法施は、仏法を説くことです。つまり、仏様の教えを未だに知らない人に伝えることで、説法や布教がこれにあたります。もちろん直接的な言葉以外にも、姿勢や行動で仏教の教えを伝えることも法施に含まれるといってよいでしょう。

そして、無畏施とは、不安や恐怖を取り除き、安心を与えることを言います。死や困難に直面したとき、多くの人は恐れおののき、心が乱れます。仏様や菩薩様はそうした不安を取り除き、私たちの心を穏やかにしてくださいます。

こうした無畏施はなかなか仏様でなければできないかもしれませんが、仏教の教えを知らなくても、また人に施すだけの財産がなくてもできる布施もあります。

それが「無財の七施」と呼ばれるものです。「無財」の言葉通り、財産がなくても施すことができる、誰にでもできる布施として『雑宝蔵経』には、それぞれ、以下のように説かれています。

眼施(げんせ)   
やさしい眼差しで人に接する。にこやかな目線は相手の心を和らげます。

和顔施(わげんせ) 
なごやかな顔で接する。私たちの表情によってもまた相手の心は和みます。

言辞施(ごんじせ) 
相手を思いやるやさしい言葉で接する。私たちは言葉により癒されたり救いを得たりします。

身施(しんせ)   
重い荷物を持ってあげる、困っている人を助けるなど、自分の身体をつかって人助けをする。

心施(しんせ)
自分だけがよければいいというのではなく、他人のために心をくばり、思いやりを持つ。

床座施(しょうざせ)
席や場所を譲る。座席だけでなく、すべてのものを分かち合い、譲り合う心を持つことです。

房舎施(ぼうじゃせ)
雨風をしのぐ場所を提供する。訪れた人に対して温かくおもてなしをする。

これら七施は、いずれも他者を思う心からおこるものです。しかし、この布施を受けた人もまた、心が豊かになります。たとえば、なごやかな顔をして、やさしい眼差しで、こちらを見る人がいたら、自然と私たち自身もにこやかな表情になりますよね? 

笑顔には人を幸せにする力があります。

周りを照らす人になろう

周りの人を照らすというと大げさなように聞こえますが、私たち自身が無財の七施を実践することで周りの人は自然とニコニコ、笑顔になれるに違いありません。

まずは自分自身の心を整え、周囲の人にやさしい声かけをする。小さなことですが、そうしたことが周囲に広がり、やがて、思いやり、慈しみあふれる社会へとつながっていくことと思います。

南無阿弥陀仏

【6月の言葉】心の中も衣替え

6月は衣替えの季節。服だけでなく、
気持ちを切り替える機会にしてみましょう。
When changing out your clothes for the season,
refresh your spirit as well.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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今年も衣替えの季節がやってきました。

実は僧侶の衣や袈裟にも、夏物、冬物があり、夏物は6月から9月末まで、冬物は10月から翌年5月末までという決まりになっています。そうはいっても温暖化が進んだ今日では、10月や5月はまだまだ気温も高く、冬物を着る身としてはなかなか辛いものがあります。

さて、一般的に「衣替え」といえば、タンスやクローゼットの中の衣類を冬物から夏物へ、夏物から冬物へと入れ替えることを言いますが、そのタイミングで古くなって着なくなったものを処分したり、着られなくなった子どもの服をお下がりとして親族の子どもにあげたり、必要なものと不要なものとに分け整理することもあるでしょう。

「断捨離」という言葉が一時期流行りましたが、まさにそれですね。この言葉は一見、仏教用語のように聞こえますが、そうではなくヨガに由来する造語だそうです。

ただ、断捨離とは、単に物の整理にとどまらず、情報や関係など不要なものや多すぎるものを断ち、捨て、離れることで、身の回りや心を整理しようというもので、究極的にはこれまでの自分の生き方を振り返り、これからの自分の生き方を見直してみようという意味まで含んでいるようです。

しかし、言うは易し、行うは難しで、そうはいってもなかなか実行できないのもまた事実。

私たちは、せっかく手に入れたものを手放すのは惜しいと思ってしまう生き物です。仏教ではこれを執着(しゅうじゃく)と呼び、苦しみの原因と説いています。

「これは私のモノ」という思いがあると、自分がコントロールできると思ってしまうからですね。でも実際、自分がコントロールできないこともしばしばです。いや、むしろコントロールできないことの方が多いのではないでしょうか。

お釈迦様は、さとりを開いた後の最初の法話で、人生とは苦の連続であること、そして、その苦の種類として、四苦八苦を説きました。四苦とは、生、老、病、死のこと。これに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えて八苦とします。それぞれは以下の通りです。

生(しょう):生まれること
老(ろう):老いること
病(びょう):病気になること
死(し):死ぬこと
愛別離苦(あいべつりく):大切な人と別れなければいけない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく):憎らしい人と会わなければいけない苦しみ
求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく):心と体の働きが次々と欲を生み出してしまう苦しみ

このうち、五蘊盛苦は総括的なものですが、生老病死は自分の身体に起こる変化によって生じる苦しみ、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦は他者との関係性の中で生じる苦しみと言い換えることができるでしょう。

自分の身体さえ自分の思い通りにならないのですから、ましてや他人との関係なんてそれ以上に思い通りにならないことでしょう。しかし、どこかで「こうありたい」「こうあるべき」という思い込みがあればこそ、そうあれない自分に「なぜできないのか」「なぜ違うのか」と苦しんでしまうのです。

2500年も前から仏教では、人はこうした苦しみの中にいると説いてきました。裏を返せば、私たちの悩みの根本は今も昔も変わらないのです。実際に執着を離れることができなかったとしても、「な~んだ、苦しみを抱えているのは私だけじゃないのか!」と思えたなら少しは気が楽になるかもしれません。

心の中も衣替え

冬服から夏服へ。せっかく身が軽くなるのですから、心も軽くしたいものですね。
みなさまにとって、仏教の教えがその一助になれば幸いです。

南無阿弥陀仏

おてつぎ運動推進大会および岳陽組檀信徒総会

5月18日、法源寺会館を会場に岳陽組檀信徒総会が開催されました。

また、今年は諸般の事情で総会に先立って総本山知恩院のおてつぎ運動推進大会も併修され、知恩院執事の神田眞晃上人をお招きし、ご法話をいただきました。

神田上人は大阪・法善寺のご住職で、法善寺は小説『夫婦善哉』で“大阪の顔”として紹介される有名な寺院です。大阪の繁華街の町中にありますが、多くの人の信仰を集め、長年水をかけられて苔むしたお不動さんをお祀りしているお寺でもあります。

神田上人からは、「親が拝めば 子も拝む 拝む姿の美しさ」というお話をいただきました。親から子へ、子から孫へ、大切な教えが、見せる姿によって受け継がれていくとのことで、まさにおてつぎ運動そのものであると感じられました。

昨今、子どもが遠くに住んでいるという人も少なくありません。仏教に限らず、文化や伝統を次世代に伝え、残していくことの難しさを感じている人も少なくないでしょう。言葉だけではなく姿勢で伝える、ということも必要なのかもしれませんね。

おてつぎ推進運動に続く、檀信徒総会では令和6年度の事業計画案が示され、開宗850年に向け様々な行事が組をあげて行われることが承認されました。

その中でも、今秋は総本山知恩院へのおてつぎ奉仕団が計画されています。開宗850年という節目の年に、ぜひご一緒に祖山にお参りし、法然上人の残した念仏のみ教えをともに嚙み締めましょう。

南無阿弥陀仏

【5月の言葉】比べなくても あなたはあなた

私たちは何につけ自分と他者を比べ勝ち。
でも、あなたにはあなたの良さがありますよ。
You have your own good qualities so don’t
compare yourself with others. Just be who you are.
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浄土宗月訓カレンダーの5月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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「隣の芝は青い」ということわざがあります。人は他人の持っているものや他の状況を、自分のものよりも魅力的に感じてしまう傾向があることを戒めることわざです。

では、隣の芝が青く見える時はどんな時でしょう?

きっと、自分に自信がなかったり、不安だったりする時ではないかと思います。失敗した時、つまづいた時など、より一層そういう思いが頭に浮かんでしまうかもしれません。
でも、あなたは本当に何も手にしていないのでしょうか?
いいえ、あなたはあなたの価値があるのです。

あいだみつおさんの詩に「トマトとメロン」という詩があります。少し長いですが、以下にご紹介いたします。

トマトにねえ
いくら肥料やったってさ
メロンにはならねんだなあ

トマトとね
メロンをね
いくら比べたって
しょうがねんだなあ

トマトより
メロンのほうが高級だ
なんて思っているのは
人間だけだね
それもね
欲のふかい人間だけだな

トマトもね メロンもね
当事者同士は
比べも競争もしてねんだな
トマトはトマトのいのちを
精一杯生きているだけ
メロンはメロンのいのちを
いのちいっぱいに
生きているだけ

トマトもメロンも
それぞれに 自分のいのちを
百点満点に生きているんだ


トマトとメロンをね
二つ並べて比べたり
競争させたりしているのは
そろばん片手の人間だけ
当事者にしてみれば
いいめいわくのこと

「メロンになれ メロンになれ
カッコいいメロンになれ!!
金のいっぱいできるメロンになれ!!」
と 尻ひっぱたかれて
ノイローゼになったり
やけのやんぱちで
暴れたりしているトマトが
いっぱいいるんじゃないかなあ

(あいだみつお『にんげんだもの』より)

この畑いっぱいになっているトマトがメロンだったらどれだけお金になったかと考えるのは人間だけ。きっとトマト自身はメロンになりたいだなんてこれっぽっちも思っていないことでしょう。いくら甘いメロンでも、パスタに合うソースは作れないでしょう。生でよし、煮てよし、トマトの使い勝手の良さは多くの人の知るところです。

さて、浄土宗で大切にされている経典の一つに『阿弥陀(あみだ)(きょう)』というお経があります。その中には、「青色(しょうしき)青光(しょうこう) 黄色(おうしき)黄光(おうこう) 赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう) 白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)」という一説があります。

これは、阿弥陀仏の浄土に咲く蓮の花のありさまを語ったもので、「青き色には青き光、黄なる色には黄色の光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり」という意味です。もっといえば、私たち一人ひとりが、すでに、それぞれの色を持ち、光り輝いていることを語っています。青い色は、黄色い光を放とうとはしないですし、赤い色は、白い光になろうとはしません。

私たちは、すべからく本来の姿のままで、価値ある尊いものです。誰もがみな、得意なこと、不得意なこと、できること、できないことを持っています。今できることすら永久ではありません。年老いて、あるいは体の具合が変化して、それまでできていたことができなくなってしまうこともあるかもしれません。他者と比べて多少(すぐ)れたところがあったとしても、仏様からしたら大した違いのない凡夫(ぼんぶ)にすぎないのです。

比べなくても あなたはあなた

あなたはあなた。ほかの誰かになろうとしなくていいのです。
出来ない自分も、出来る自分も、まるごと愛して生きていきましょう。

南無阿弥陀仏

【4月の言葉】一心専念弥陀名号

阿弥陀さまは、お念仏をとなえる者を必ず
お救いくださります。
Let us practice nembtsu wholeheartedly.
Namu Amida Butsu.
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浄土宗月訓カレンダーの4月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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今月の言葉は、開宗の御文(法然上人が浄土宗を開くきっかけとなった要文)の一節です。この要文は、唐の高僧・善導大師の著した『観無量寿経疏』の中に記されています。

比叡山にこもり、多くの人が救われる道はないものかと悩んだ末、善導大師の書かれた書物に出会い、この一節をもって浄土宗開宗を決意したとされています。法然上人がこの要文に出会ったのは承安五年(1175年)の春のことでした。それから850年の月日が流れましたが、令和のこの時代にも念仏の教えは受け継がれています。

1175年といえば、平家が栄華を極め、貴族に変わって武士が台頭してきた時代と重なります。平氏と源氏が覇権を争う、まさに戦乱の世です。1177年には安元の大火が起こり、平安京の3分の1が焼け落ちたと言われています。多くの民衆にとっては、情勢不安の中で明日をも知れぬ命を生きていた時代といえるでしょう。

時をさかのぼること1052年、日本は末法元年にあたるとされ、ここから「末法の世」に突入するといわれていました。末法とは、お釈迦様の残した教えだけはあるが、きちんとした修行を行う者もなく、さとりを開く者もいない時代のことを言います。こうした世にあって、自力でさとりを開くのは難しく、すでにさとりを開いた如来(仏様)に救いを求める浄土教思想が盛んになったのです。1053年、藤原頼通が平等院鳳凰堂を建立したのもこの世に極楽浄土を作らんがためです。

では、どうしたらその救いにあずかれるのか?
念仏が浄土へ行くための方法とされていました。

しかし当時の念仏は、観想念仏といい、心に仏様の姿を思い浮かべる、いわば瞑想を主としたものです。見たことも会ったこともない仏様を思い描くためには、経典を読み込む必要があります。経典には極楽浄土にいる阿弥陀如来のお姿や極楽浄土の様子を描いたお経があるので、そうした文字からイメージを膨らませ、静かな環境で精神集中することで仏様の姿をありありと観て、それを極楽往生の確信としたのです。

しかし文字が読めない人はどうでしょう。それどころか、そもそも、お経は一般の人が簡単に手に取ることはできません。また、戦乱の世にあって、心静かに修行に集中できる環境を持てる人はどのくらいいたでしょう。

そこで法然上人は、いつでも、どこでも、だれにでもできることとして「なむあみだぶ」と仏の名を声に出す行こそが救われる道だと説いたのです。つまり、身分や能力、環境によって左右されることなく、誰もが平等に救われる道が現在の念仏行だったのです。

一心専念弥陀名号

いつでも、どこでも、だれにでもできることは一見「簡単なこと」「とるに足らないこと」のように思われるかもしれません。しかし、多くの人ができる、一緒にできることにこそ価値があることもあります。これは仏道修行のユニバーサルデザインといってもよいでしょう。

近年、建築設計、公共空間デザイン、工業製品の設計では、高齢者や障害者を対象としたバリアフリーに代わってユニバーサルデザインという概念が広まりつつあります。ユニバーサルデザインとは、年齢や能力、状況などにかかわらず、最初からできるだけ多くの人が利用可能にすることをコンセプトにしたデザインのことです。これは、アメリカのノースカロライナ州立大学ロナルド・メイス教授が1985年に提唱したのが最初といわれています。

しかし、その概念は800年以上前の日本で、宗教実践の中に取り込まれていたのです。

今年は浄土宗開宗850年の記念すべき年です。その教えをかみしめながら、ともにお念仏をおとなえいたしましょう。

南無阿弥陀仏

【3月の言葉】未来を信じ 今日を励む

目標への道筋は平坦ばかりではありません。
それでも、ゴールを見失うことなく
あゆみ続けることが大切です。
Whether things are going well or not, try your best right now and have trust in the future.
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浄土宗月訓カレンダーの3月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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春は別れの季節であると同時に、出会いの季節でもあります。年度の変わり目でもありますので、卒業式、退職などの「区切り」を迎える方もいれば、入学式、入社式など「はじまり」を迎える方もいらっしゃるでしょう。新たな始まりには、不安もあるかもしれません、でも同時に期待も膨らむものです。

諸行無常は世の常とはいえ、私たちは未来を思い描いて生きています。

こういう未来を迎えたいというビジョンがあれば、そこに向かって今日一日一生懸命生きよう、頑張ろうという気持ちが起こってきます。

未来に対してこうしたい、ああしたいというイメージがなければ、「今だけ」「ここだけ」「自分だけ」よければいいという近視眼的な、刹那的な生き方になってしまいます。未来を信じることは、今をよりよく生きる力にもなるということですね。

未来を信じ 今日を励む

浄土宗的にいえば、未来とは来世といえるでしょう。この世で授かった命だけでなく、この世から離れたあの世の世界も未来に含まれます。その来世に極楽往生できると信じることが念仏行に励む糧となります。

なぜ極楽に往生できるのか、それは、阿弥陀如来がまだ修行中の身で法蔵菩薩と呼ばれていたころ、衆生を救うために立てられた誓いにこのように書かれているからです。

もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ。(第十八願)

(現代語訳)
もし私(法蔵菩薩)がさとりを開き、仏になることができたなら、心から私のことを信じ、私の浄土に生まれ変わろうと願い、私の名前を十回となえる者は、必ず私の浄土に生まれることができる(「十回となえても極楽浄土に生まれ変われない者がいたら、私は仏にならない」が直接的な現代語訳です)。

きっとそこに行けると信じるから、そのための行いに励むことができるというわけです。

受験勉強なども同じかもしれません。模試の結果が〇点だった、あと10点上がれば△△高校の合格圏内だ、あと10点分積み上げれば△△高校に合格できる、そういう思いが勉強の励みとなるものです。しかし、残念ながら受験勉強に関しては結果が保証されているわけではありません。ほかの受験生の出来が良ければ合格基準点が上がってしまうこともあります。

しかし、極楽浄土は定員がありません。どれだけ多くの人が極楽浄土に行ったとしても、定員オーバーで振り落とされるということがありません。ありがたいですね。

そして、そこに行くために必要なことは念仏をとなえることだけです。経典を暗記するとか、何日も断食して精神集中するとか、能力や体力がないとできないことではないのです。

さあ、来世の極楽往生を信じて、お念仏をおとなえしましょう。

南無阿弥陀仏

涅槃会をおつとめしました

2月15日は、お釈迦様が入滅された(亡くなられた)日といわれています。そこで、当山では毎年2月に本堂にはお釈迦様入滅時の様子を表した涅槃図をおまつりしています。

涅槃(ねはん)とはサンスクリット語のニルバーナを音を漢字にあてたもので、さとりの境地、苦しみが消滅した状態を意味します。

入滅することを、「涅槃に入る」とも表現しますが、これは、物理的な肉体の終わりによって身体的な苦からも脱し、いかなるものごとにも煩わされることのない寂静の境地に至ることを表しています。

法源寺に伝わる涅槃図は、弘化4年に当時の檀信徒の寄進によって収められたものです。その大きさもさることながら、鮮やかな色彩も残っており、その迫力に圧倒されます。

弘化4年といえば、西暦でいうと1847年です。ペリーが黒船に乗って浦賀沖に現れたのが1853年ですから、それよりも6年前に作られた一幅ということになります。裏には寄進した方のお名前も残されており、江戸時代末期の作という歴史的な価値だけでなく、檀信徒の気持ちが込められ、代々受け継がれてきたという「次世代への想い」という価値も感じられるものです。

さて、そうしたいわれのある涅槃図をおまつりした本堂で、本年も観音講のみなさまと涅槃会を厳修し、お釈迦様のご遺徳を偲びました。

法要後は、涅槃図の絵解きをし、頭北面西(頭を北向き、顔を西向き)にして横たわるお釈迦様の姿から、現在のご遺体を北枕にして寝かせるようになった風習がおこったこと、お釈迦様のまわりにある樹木は沙羅双樹の木が、仏教の教えの不変性と、物質の可変性(諸行無常)を示していることなどをお話ししました。

前日までの陽気が一転し、寒い日でしたが多くの方がお見えになってくださり、一緒にお勤めをすることができました。ご参加くださった皆様、ありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【2月の言葉】日々の合掌 心の手当て

手を合わせて仏様やご先祖様と向き合う時間は、
忙しい日常のなか、きっと心やすらぐひと時になるはずです。
Thinking of those who have passed and putting your hands together each day can bring you peace of mind.
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浄土宗月訓カレンダーの2月の言葉。
字は大本山金戒光明寺清浄華院第76世法主藤本淨彦台下の揮ごうです。
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「忙しい」という字は、心を亡くすと書きます。

ご法事の法話で、日々の生活の中では忙しさにかまけて故人を思い返す時間があまりとれないこともある、法事はそうした亡くなった方のことをゆっくり思い出す時間となる、というお話をさせていただくことがあります。

故人のことだけではありません。自分自身を顧みることもそうです。

現代社会では、仕事に追われ、心に余裕がなくなり、周りのことが見えなくなることもあるでしょう。スマホでメールを見ながら食事をしたり、片付けや仕度をしながら子どもの話を聞き流したり…。「ねぇ聞いてる?」の声にドキッとしたことがある人もいるのではないでしょうか。
かくいう、私にも心当たりがあります。

自分が何に追われているのか、何を優先すべきか、本当はどうしたいのか、自身を顧みる時間が必要なのはわかってはいるけど、そうした時間を取れないのもまた現代人の悩み。

そんなときは、たった1分でもいい、いや30秒でもいい、手を合わせて、十遍のお念仏をおとなえしてみてください。

一呼吸置くだけで、ずいぶん心が落ち着くはずです。

日々の合掌 心の手当て

ケガの処置や病気の看病のことを「手当て」と言いますが、実は文字通り、患部をさすったり、背中や胸を撫でたりすることでリラックス効果が得られることが知られています。

私たちは肌に心地よい刺激を受けると脳が反応し、それにより「オキシトシン」というホルモンが分泌されて脳内に広がるといわれています。オキシトシンは、別名・幸せホルモンとも呼ばれ、幸福感を高めたり、気持ちが前向きになったり、不安や恐怖心を和らげるといった効果があるようです。

仏さまの印相(手の形)には、手のひらをこちらに向けて、まさに「手当て」をする格好になっているものがあります。これは施無畏印(せむいいん)といって、「大丈夫、大丈夫、怖がらなくてもいいよ」と呼びかける時の手といわれています。

不安や恐怖を取り除くための手の形といってもよいでしょう。

「手当て」の意味そのものですね。

日々の合掌の中で自身を振り返り、セルフケアをしてみましょう。
念々のうちに、仏様の手があなたの背中をさすってくださることでしょう。
一呼吸おいて、心に余裕が生まれると、少し優しくなれるはず。
ぜひお念仏を通じて、心の安らぎを得てください。

南無阿弥陀仏

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