【12月の言葉】希望の灯 どこまでも

がんばってきたこと、
続けてきたことは無駄になりません。
あなたの行く先を照らす光になるはずです。
Good deeds you have done for others are certain to help you.
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浄土宗月訓カレンダーの12月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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今年も残すところあと1か月。今年はどんな年でしたか?
実は私、今年は本厄の年でしたが、いまのところ大過なく過ごしております。でも、知り合いからは「本厄の年は気を付けて過ごすから大丈夫だけど、その翌年、結構みんなやられてるよ」とのお言葉をいただきました。引き続き気をつけねばなりません。

私たちは現在の積み重ねで未来を生きていきます。健康な未来を生きたいなら、現在、食生活に気をつけたり、適度な運動をしたりすることが必要ですよね。逆にいえば、現在、がんばっていること、続けていることが未来の道筋を照らしてくれる縁(よすが)にもなります。これは、健康だけでなく、勉強や仕事にもいえることかと思います。

「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」

この格言は、シドニー五輪、女子マラソンで金メダルを取った高橋尚子さんが、高校時代の恩師から送られた言葉として知られています。

高橋さんは、高校時代、インターハイに出場するレベルの選手ではあったものの、全国大会では思うような結果が出せなかったといいます。その後、大学に進み、インカレで優勝したりと、学生トップクラスの選手へと成長しました。しかし、そのときの専門は中距離でした。私たちが知る「マラソンの高橋尚子」が誕生するのは、社会人になって小出監督に出会ってからのことです。

ご存じの通り、高橋さんはオリンピックで金メダルという偉業を成し遂げましたが、それまでの道のりは決して平たんなものではなかったはずです。しかし、これまでの努力の積み重ねがあったからこそ、希望の灯を常に前にみながら走ることができたのではないでしょうか。

2024年、みなさんの行く先を照らすものはなんでしょうか? 何も思い浮かばないわという人は、今はまだ「下へ下へと根を伸ばす」時期なのかもしれません。

さて、法源寺では農園部を立ち上げて3年が経ちましたが、野菜ができるにはまず土をよく耕さないといけません。そうしないと丈夫な根が張らないからですね。
でも、土づくりは、種や苗を植えるずっと前に行っておく必要があります。地味で疲れる作業ですが、こうした地道な準備が収穫に大きな影響を与えることを肌で感じています。
こうした見えない努力こそが、灯を点す燃料になるのです。

希望の灯 どこまでも

季節はめぐり、また春がやってきます。結果をあせる必要はありません。
その時に花が咲くよう、いまはじっくり力を蓄えましょう。
いずれ花が咲くと思って、気長に冬を楽しみましょう。

灯台のあかりのように「希望」が私たちをどこまでも導いてくれるはずです。

南無阿弥陀仏

おてつぎ信行奉仕団に行ってきました

11月11日~12日、住職、副住職、檀信徒の皆様、総勢19名で、おてつぎ信行奉仕団として総本山知恩院へ行ってまいりました。

おてつぎ信行奉仕団とは、手から手へ信仰を継ぐ修行体験のことで、京都の総本山・知恩院で、お念仏の称え方や礼拝の仕方などを学ぶとともに、作務(清掃活動)を行います。お勤めでは、普段入ることのできない、集会堂や国宝・御影堂の内陣などでお参りをすることができます。こうした知恩院での仏道修行を通じて、日頃の生活や自分自身を見つめなおす機会をいただき、念仏の信仰を深めるというものです。

改修を終えた集会堂で別時念仏

11月11日は朝5時に法源寺を出発し、途中休憩をはさみながら10時に知恩院に到着しました。到着後、結団式、御影堂参拝、別時念仏を勤めます。なかなかハードなスケジュールですがこれも修行のうち。シンプルな精進のお昼でしたが、気持ちが修行モードに入っているせいか御飯が美味しく感じます。

昼食をいただきます(ご飯はおかわり自由)

昼食後は、礼拝、法話、清掃活動を行いました。この日は晴れていましたので、黒門の階段付近の落ち葉掃きを行いました。石畳の溝があるので、落ち葉を集めるのも一苦労です。でも、みんなで力を合わせ、ゴミ袋2袋分の落ち葉を集めることができました。

その後、宿坊であるホテル和順会館に入り、講堂にて法話を聴き、夕食となりました。ご法話をいただいたのは奈良教区・九田寺の辰己順祐上人です。実は辰己上人、インスタグラムで法源寺とつながっていましたが、たまたま巡り合わせで今回のおてつぎ信行奉仕団の係になったそうです。オンラインでは繋がっておりましたが、直接お会いするのは初めてで、不思議なご縁をいただきました。柔らかな口調で仏教の教え(四苦八苦)、浄土宗の教え(阿弥陀様の浄土、倶会一処)をお取次ぎいただきました。

夜は門限(23時)まで、自由時間!おりしも知恩院では「おてつぎフェス」というイベントが行われていました。大阪の上宮高校(浄土宗の宗立高の一つです)の書道パフォーマンス部の生徒さんが、国宝の三門前で大きな紙に「一心専念 弥陀名号 行住坐臥」と書いて下さましたが、迫力満点のダイナミックなパフォーマンスに圧倒されました。

この句は浄土宗開宗の文の一部です。法然上人が師と仰がれた唐の高僧・善導大師の書かれた『観無量寿経疏』の中に以下のような一説があり、これを目にした法然上人が念仏の行であらたに宗派を打ち立て、浄土宗が開かれたとされています。

一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故

【意味】
一心に南無阿弥陀仏とおとなえし、いつでもどこでも、場所や時間も気にすることなく、お念仏を続けられる事こそ、阿弥陀様が極楽往生に相応しいとされた行である。なぜなら、これこそが「あらゆる方を救いたい」と誓った阿弥陀様の願いにかなっているからである。

来年は浄土宗が開かれて850年という節目の年を迎えます。こうして宗派をあげて念仏の教えを広めていくことで次の50年、100年と受け継がれていくことでしょう。

翌朝は朝から国宝・御影堂でお勤めに参加しました。朝の御影堂はずいぶん冷えましたが、身体のうちから温まるよう、みなさん一生懸命にお念仏をおとなえしていました。

朝食後、解団式をして、ここからはお楽しみタイムです。今回は、石清水八幡宮と松花堂庭園に参りました。石清水八幡宮といえば、徒然草で「少しのことにも先達はあらまほしき事なり」(どのようなことでも案内役(指導役)は欲しいものである)で有名な神社です。ケーブルカーで上にあがると、遠くに京都タワーを眺めることができました。また、松花堂庭園では隣接する京都吉兆で松花堂弁当をいただき、心もお腹も満たされる観光となりました。

石清水八幡宮
京都吉兆の松花堂弁当

さて、徒然草ではありませんが、今回こうして総本山知恩院で貴重な体験ができたのも、おてつぎ信行奉仕団としてお参りできたからです。普段は入れない集会堂や大方丈などでお参りしたり、見学したり、また法話を通じて念仏の教えの真髄に触れたりと、ご案内いただいた知恩院の行係の先達なしでは経験することができなかったことでしょう。

帰りのバスの中での檀信徒の皆様の笑顔からも、今回の旅の満足度が伝わってきました。

また、こうした機会を設けたいと思いますので、ご家族、お友達にもお声掛けいただき、多くの皆様にご参加いただけたら幸いです。ぜひ一緒に知恩院へ参りましょう。

南無阿弥陀仏

【11月の言葉】今さらではなく 今から

物ごとをはじめるのに遅いということはありません。
はじめようと思ったときがスタートの日です。
The moment when you make a resolution is the perfect time to start fulfilling it.
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浄土宗月訓カレンダーの11月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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「六十の手習い」という言葉があります。
今や60才は老け込む年ではありませんが、60と言えば仕事も一区切りついて余生を楽しむごほうびタイムといえます。そんな年を迎えてから勉強や芸事を習い始めることを「六十の手習い」と言いますが、これは何か物事を始めるのに遅すぎることはないことを示すことわざです。

年のせいにして始めないことほどもったいないものはありません(いまや人生100年時代ですから、現役時代より長い「余生」が待っていますし)。

さて、江戸中期の遊行僧・木喰(もくじき)は、微笑みをたたえた素朴な仏像を数多く彫ったことで知られています。仏像といえば、運慶や快慶あるいは定朝など有名な仏師がおりますが、これら偉大な仏師が彫る仏像は、写実的で、衣の襞や筋肉の筋など細部に至るまで実に精巧に彫られており、多くが国宝になっています(東大寺南大門の仁王像、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像など)。

木喰による地蔵菩薩像(日本民藝館で撮影)

木喰の仏像はまるで別で、一木彫りで柔らかな丸みをもち、美しいというより、親しみやすい仏像です(写真をご覧ください)。大正時代に柳宗悦らによって民藝運動がおこると、こうした庶民信仰のための素朴な造形に光があてられ、広く人気を博するようになりました。

山梨県の山村に生まれた木喰は、50代半ばに日本全国を回る旅に出て、60歳を過ぎた頃から仏像を彫りはじめました。それだけではありません、なんと80歳で千体仏の造像を発願し、しかも90歳までの10年間でこれを達成したといわれています。

普通に考えて、60から新しいことに挑戦し、80歳で1000体の仏像を彫ろうなどと思えるでしょうか。でも、彼は成し遂げました。きっと木喰は「いまさらこれを発願してもどうせできやしない」とは思わなかったことでしょう。

自分に残された命があとどのくらいあるかは誰も知りません。しかし、この先の人生において今日が一番若い時です。今、始めなければいつやるのでしょう? 年齢はやらない理由にはなりません。

さて、気づけば今年もあと2か月。
何かやり残したことはありませんか?
あるいは、まだ始めていないことはありませんか?

今年の1月の言葉は「思いから行いへ」でした。でも日々の忙しさにかまけて、ああ、あれもやりたかったのに、これもやりたかったのに…2023年が終わってしまう、と残りの日数を憂えている人もいるかもしれません。

今さらでなく今から

あの時あれをやっておけば…と後悔する前に、今、始めましょう。

今年はまだ2か月ありますよ!

南無阿弥陀仏

【10月の言葉】的が決まれば あとは射るだけ

私たちには、向かうべき浄土があり、
そこへ往くためのお念仏があります。
達成に向かい、日々お念仏をおとなえしましょう。
Constantly chant the name of Amida Buddha to attain birth the Pure Land.
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浄土宗月訓カレンダーの10月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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暑さ寒さも彼岸までといいますが、秋彼岸を過ぎてから暑さがぶり返してきました。
体調管理にも一層気を付けなければなりません。

車で出かける時、目的地をカーナビに入れる方も多いでしょう。遠方の商業施設や観光地であれば初めての道でも間違いなくたどり着くことができますからね。

でも、目的地を設定するだけでは、目的地にはたどり着けません。当たり前のことですが、そこまで運転しなければなりません。私たち自身が、ハンドルを握り、アクセルを踏んで目的地へ向かう必要があります(最近では自動運転技術の研究が進んでいるようですが、実用化されるまでにはもう少し時間がかかりそうです)。

目的地を目標と言い換えた場合、多くの人は目標を立てることをしますが、その後、目標に向かって実践できる人はどれだけいるでしょうか。

前月の言葉は「継続とはあきらめないこと」でした。
継続のポイントは習慣化であるという話をしましたが、習慣化するためには、目標を設定することが大切です。ダイエットや資格取得の勉強も、なぜダイエットするのか(健康のため?着たい服がある?)、なぜ資格取得をめざすのか(独立?昇進?)、目標がはっきりしていれば「継続」の大きな原動力になることでしょう。

行くべきところが決まれば、それに向かって必要なことをするだけです。

それは今生においても、来世においても同じこと。

浄土宗では、現世に別れを告げた後、極楽浄土に向かうことこそが最良の道であると説きます。そこでは大切な人と再会し、また阿弥陀様の下で仏道修行に打ち込み、さとりを開くことが可能になるからです。

では、極楽浄土という目的地に向かってどう進めばよいのでしょうか? 
これもまた経典に説かれています。

『無量寿経』には、阿弥陀如来がまだ修行中だったころ、さとりを開くにあたって48の誓いを立てられたことが記されています。その中の18番目、第十八願には、「もし私が仏になるにあたって、生きとし生けるものが心の底から極楽浄土に生まれたいと願い、阿弥陀仏の名を声に出してとなえたにもかかわらず、極楽浄土に生まれることができないなら、私は仏にならない」と示されています。

つまり、「ナムアミダブツ」と声に出してとなえれば、必ず極楽行くことができるというのです。

なんて簡単なのでしょう!

難しいことは一つもありません。ただ声に出してとなえればよいのですから。精神集中できる静かな環境にいなくても、難しい経典を理解していなくても、いつでも、どこでも、誰にでも開かれた実践ですので、その簡単さゆえ、鎌倉時代以降、念仏の教えは燎原の火のごとく世に広まることとなりました。

ちなみに、カラオケや芸事で得意の曲目、演目を「十八番」といいますが、この十八番は阿弥陀仏の「十八願」が語源と言われています。

的が決まれば あとは射るだけ

目的地は決まりました。さぁあとはそのために必要なことをするだけです。
来世の極楽往生のためには念仏行。
今生の目標のためには何をしますか?

満を持して放たれた矢は、的に向かって一直線に飛んでいくことでしょう。

自らの的を射抜くために、日々実践してまいりましょう。

南無阿弥陀仏

【9月の言葉】継続とはあきらめないこと

立ち止まったり、つまづいたりしても大丈夫。
目標と向き合い続ければきっと成し遂げることができるはずです。
To continue means to never give up.
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浄土宗月訓カレンダーの9月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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何をしても長続きしない人のことを「三日坊主」と言いますが、その語源は、出家した者が修行に耐えられず、三日で還俗(俗世に戻る)してしまうことから来ているそうです。

みなさんはどうでしょうか?
今年はやせるぞ~と始めたダイエットや資格取得に向けた勉強など、初日の決意は実践として継続されているでしょうか。かくいう私も、読もうと思って買った本が「積ん読」状態になってしまっております…。

出来ていない私が言うのもなんですが、継続のポイントはいかに習慣化できるか、でしょう。

たとえば、歯磨きを継続できない人はそういないと思います。これは「食べたら歯を磨く」が習慣化しているからです。習慣化していればやらないとかえって落ち着かないということになります。

毎朝の散歩が習慣化している人も同じでしょう。ダイエットのため頑張るぞという意気込みを毎日するのではなく、散歩そのものが日常の一部になっているからこそ継続できているのではないでしょうか。

さて、唐の時代に浄土教を広めた善導大師は、念仏者に求められる実践態度として、恭敬修くぎょうしゅ(阿弥陀仏や菩薩を敬うこと)・無余修むよしゅ(他の行ないをまじえず念仏だけをすること)・無間修むけんじゅ(時間的にも行としても間断させずに念仏を行うこと)・長時修じょうじしゅ(ひとたび念仏に心を寄せたら臨終まで一生涯継続すること)の四つを示しました。

浄土宗ではよく読まれる法然上人御遺訓の『一枚起請文』の中に出てくる「四修」とはこの四つの実践態度を意味します。

このうちの長時修は、まさに「継続」そのものです。法然上人は、毎日6万遍念仏を申されたと言われます。さすがに6万回は難しくとも、十遍のお念仏(十念)でしたらいかがでしょうか。毎日休むことなく十遍のお念仏でもおとなえすることならできそうですね。

あとはこれを習慣化するだけです。朝夕の仏壇へのお参りの際、食事をいただく際、就寝前などさまざまなタイミングがありますが、日常生活の中に組み込んでしまえば自然と念仏とともに生きる生活となります。

法然上人も、四修と呼ばれる実践態度も、念仏を称えるうちに備わっていくと説いています。逆説的ですが、態度がなければ続けられないのではなく、継続していく中に態度が備わっていくということです。

継続とはあきらめないこと

みなさんが継続したいことは何でしょうか。繰り返しますが、継続のポイントは習慣化です。習慣化できれば、継続は「挑戦」ではなく「日常風景」となります。

もし途中で途絶えてしまったら?

大丈夫、また始めましょう。そこでやめてしまわない限り、「ひと休み」しただけです。休みを入れながらでもまた続けることで、継続は達成されることでしょう。

どうぞその中にお念仏も入れていただければ幸いです。

南無阿弥陀仏

【8月の言葉】涼しさ奏でる鈴の音

暑い中に吹くひとときの涼風は、「極楽の余り風」とも
呼ばれます。頬をなでるやさしい風は、
ご先祖さまからのエールかもしれません。
On hot days in the summer, refreshing
breezes from the Pure Land come to cool us.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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暑い夏がやってきました。動いてなくても汗ばむ季節です。
日本では音で涼をとる風習がありました。軒下の風鈴はその最たる例です。
チリンという音がすれば、「あ、風が吹いた」と耳で感じ、風情も感じられますよね。
しかし、最近では、その暑さゆえ窓を閉め切ってエアコンで涼をとることの方が多いように思います。

さて、浄土三部経の一つである『阿弥陀経』では、美しい極楽浄土の様子が描かれています。あちらこちらにきらびやかな装飾が施され、さまざまな色をした蓮華が池に浮かんで咲きほこっています。絶えず美しい音楽が流れ、素晴らしい鳴き声の鳥が生息し時折さえずる、といった具合です。

その中に、「彼の仏の国土には微風吹動し、諸の宝行樹及び宝羅網微妙の音を出す。譬えば百千種の楽を同時に倶に作すが如し。是の音を聞く者は皆自然に念仏・念法・念僧の心を生ず」という一説があります。

簡単に現代語訳をすると以下のようになるでしょう。

極楽浄土で吹くそよ風がさまざまな宝でできた樹木や飾り具を動かすたびに、美しい音色をたてる。まるで百千もの楽器を一度に演奏したようで、この音色を聞く者は、自然と仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心が生まれる

酷暑の中、そよ風が吹き、涼を覚えれば、「あぁ、ありがたい」「あぁ、気持ちがいい」と感じることでしょう。「地獄に仏」とはまさにこのことですね。

でもひょっとしたらその風は、極楽浄土からのご先祖様のお便りなのかもしれません。うだる暑さで「大丈夫かい?」「無理してないかい?」という子孫を気遣う声なき声かもしれません。

涼しさ奏でる鈴の音

さて、まもなく棚経が始まります(日程は【こちら】から)。

檀信徒の皆様のお宅では、お仏壇の鈴(リン)の音が響くことでしょう。風鈴とは異なりますが、こちらもまた、ご先祖様をお迎えするために欠かせないものです。涼しい風を感じたら、ご先祖様のお便りだと思って、お仏壇の前で「お返事」をなさるとよいかもしれません。

どうぞ、鈴を打ち、十遍のお念仏をお唱えして、今年の夏のご報告をなさってください。

南無阿弥陀仏

【7月の言葉】当たり前と思うあやうさ

多くのつながりに支えられている日常。
当然と思っていると、
思わぬほころびにつながることも。
Be aware that every day consists of delicate balancing.
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浄土宗月訓カレンダーの7月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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「当たり前」の対義語は何でしょう?

「有り難い」です。めったにないという意味ですが、感謝を伝えるときに口にする「ありがとう」の語源でもあります。

そう、私たちは日常の生活がいつでも変わらずそこにあるものと思い漫然と過ごしています。ひとたび、病気になったり、怪我をしたりすると、健康でいることの有り難さをヒシと感じるわけですが、のど元過ぎれば何とやらで、身体が回復すれば元気でいることが当たり前と思い、また不摂生な生活に戻ってしまいます。

健康だけではありません。
こうして生を受け、今ここにあること自体も当たり前と思っています。

地球に生物は約175万種いるといわれています。そのうち、ほ乳類は6000種。数ある生き物の中で、ほ乳類に生まれてくることも大変ですが、ほ乳類の中で人間として生まれてくることはさらに大変です。単純に計算すれば6000分の1ですから、0.017%ということになります。

そう考えれば、まず人として生を受けること自体が極めて有り難いことであると気づくのではないでしょうか。

『華厳経』の中に、三帰依文と呼ばれる一説があります。お釈迦様の時代から、仏・法・僧に帰依する、すなわち仏道に入門しようと決意した弟子が唱える経文として知られています。

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし

この世に、人として生を受ける有り難さは先ほど述べた通りですが、人として生まれた中で仏教に巡り合える人はどのくらいでしょうか。現在の世界の人口は約79億人といわれています。世界の仏教徒人口は約5億人ですから、世界の総人口の6%ぐらいにあたります。

世界の仏教徒はスリランカ、タイ、ミャンマー、中国、韓国、台湾など日本以外にもいますが、日本だけでは8000万人くらいといわれています。79億分の8000万ですから、確率的には1%を若干超えるくらいです。

このなかで、浄土宗の教えに出会える人はどのくらいでしょうか…。さらに少なくなることは間違いありません。こう考えると、仏教、ましてや浄土宗の教えに出会えることもまた極めて有り難いことであると気づくでしょう。

こうして、希少な確率として人として生まれ、なかなか出会うことない仏教の教えに触れたのだから、この世でさとりを得るよう努力しなければ、次はいったいいつこのような機会に恵まれるだろうか。心から仏法僧に身を任せ、仏道修行に励みましょう。というのが『三帰依文』の趣旨です。

当たり前と思うあやうさ

仏教徒であること、菩提寺があること、先祖のお墓があること、どれも当たり前ではありません。そして、それらは自分一人でなしえたことではなく、先人たち、そして、周りの人たちとの縁によってもたらされた部分が大きくあるのではないでしょうか。

普段身近にあること、変わらないと思っていることに有り難味を感じることは少ないかもしれません。毎日とはいいませんが、たまにはその「当たり前」がどのように成り立っているのか、誰によって支えられているのか思いを巡らしてみると、物事に対して別の見方が出てくることでしょう。有り難味に気づくと、自然と感謝の念も湧き上がってきますよね。

まもなくお盆の季節がやってまいります。
みなさんがここにこうしている「有り難さ」を、ぜひご先祖様にもお伝えください。

南無阿弥陀仏

【6月の言葉】こころ耕す なむあみだぶつ

往生を願い、お念仏をとなえ続けるなかに、
阿弥陀さまや極楽浄土への想いは自然と育まれます。
Each time you chant nembutsu, your faith in Amida Buddha deepens.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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浄土宗では「なむあみだぶつ」ととなえることが大切と説きます。
「なむ」とは「帰依する」という意味で、わかりやすくいうと「お任せする」「お願いする」ということです。「あみだぶつ」とは阿弥陀仏のこと、すなわち、私たちを西方極楽浄土へ救い取って下さる如来さまのことです。つまり、「なむあみだぶつ」ととなえることは、「あみださまどうぞお願いします」という私たちの救いを求める願いを形(言葉)にして、阿弥陀さまに届けるものです。

今でこそ「念仏」といえば、この「なむあみだぶつ」と声に出してとなえることを指しますが、声に出すことを勧めたのは浄土宗を開いた法然上人で、それ以前は心に仏の姿を想い浮かべる観想念仏(かんそうねんぶつ)が主流でした。では、法然上人は、なぜ声に出す念仏を推奨したのでしょうか?

それは、いつでも、どこでも、だれでもできるからです。

観想念仏を行うには、まず思い浮かべる仏の姿を知っていなければいけません。それは、阿弥陀経などの経典に書かれていますが、経典を読んで理解できるのは、貴族や僧侶など一部の人だけでした。

そして、仏の姿を知っていても修行に集中できる環境がなければ実行することはできません。その日その日の暮らしにあくせくしている一般民衆にとって、日常を離れて精神集中できる場や時間を確保するのは難しいことでした。

法然上人自身は、比叡山で智慧第一の法然坊と呼ばれるほどの秀才でしたから、経典の内容も理解していたでしょう。また、比叡山は修行道場ですから、生活の糧の心配をせずに修行に打ち込むこともできたでしょう。しかし、観想念仏のみを往生の行としてしまえば、これを行えない一般の人々は、仏の救いに与れないことになってしまいます。ですので、「念じることは声に出すことと同じ」と解釈し、より簡単な声に出す念仏を勧めたのです。

さて、法然上人が亡くなる二日前に遺したとされる『一枚起請文』には、以下の一節が出てまいります。

ただし三心四修と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて、 往生するぞと思う内にこもり候なり。

三心(さんじん)とは、噓偽りの無い真の心(至誠心)、自身の至らなさを自覚し仏さまの救いを深く信じる心(深心)、極楽浄土へ往生したいと願う心(回向発願心)の三つの心のことを言います。四修(ししゅう)とは、仏さま対していの心を持つこと(恭敬修)、お念仏以外の諸行を修めないこと(無余修)、忘れずに念仏をとなえること(無間修)、念仏の教えに帰依(したら臨終のときまで念仏を怠らないこと(長時修)の四つの実践態度のことを言います。

つまり、念仏を漫然ととなえるだけでなく、こうした心構えや態度が必要だというのです。これはちょっと難しそうですね。でも大丈夫です。これらさえも、となえているうちに自然とそなわっていくんだというように説かれています。難しく考えずに、まずは実践せよ、ということですね。

こころ耕す なむあみだぶつ

ひとたびなむあみだぶつととなえると、私たちのこころは耕され、仏様のことや仏教のことを大事だと思える種が芽吹きやすくなります。「こころ耕す」とはそういう意味でしょう。

私たちは、何をするにも「これをするとどうなるのか」、「どのくらいすればいいのか」など頭で考え、メリットとコストを比べて功利的に行動をとりがちです。

しかし、やってみることで新たな気持ちが芽生えたり、心持ちが変わったりして、さらに私たちの行動に影響を与えることもしばしばあります。人生の豊かさは、コスパ(コストパフォーマンスの略)だけでは測れない、そうしたところにあるのではないでしょうか。

ぜひ、法事や墓参の際には、大きな声でなむあみだぶつとおとなえください。気持ちや行動に変化が現れるかもしれません。

南無阿弥陀仏

当たり前こそ有り難い

私は、毎朝、新幹線で東京の大学へ通っているのですが、最近、大勢の中学生が向いのホームに集まっている光景をしばしば目にします。そう、修学旅行です。

はるか20数年前、私の時もそうでしたが、富士市内の中学生はだいたい奈良、京都方面に向かうことがお決まりです。下りホームの壁には、「いってらっしゃい!」の掲示も。
しかし、こうした光景は実に4年ぶりです。

5月になり、新型コロナウイルスが感染症法上の第5類に移行して、ようやく社会生活も「日常」に戻ろうとしています。法事も遠方から親戚を呼び、大勢の参列者を集めて営む方も増えてきました。久しぶりの再会に、顔がほころび、話が弾んでいらっしゃる様子をうかがうにつけ、こうして集まることを待ち望んでいたのだなぁとしみじみ感じます。

そんな皆さんのお姿を拝見し、先日のご法事ではせっかくですからと記念写真を勧めてしまいました。次の法事の際には、その写真を眺めながら「ずいぶん大きくなったね」「すっかり年を取ったね」など、一層話に花が咲くことと思います。

修学旅行に行くこと、法事を営み人と会うこと、私たちはこれまで当たり前のように行ってきました。しかし、私たちの「当たり前」は、いとも簡単に崩れ去ることも経験しました。そして、何気ない日常の中で積み重ねている日々の行いは、とても有り難いものであったのだと気づくことができました。

悲しいかな、人は忘れてゆく生き物です。喉元過ぎれば熱さを忘れるという格言がありますが、ひとたび「当たり前」になってしまうと、またその有り難さを忘れてしまうものです。

当たり前だと思うと、なぜできないのか、どうして思い通りにならないのか、怒りや苛立ちを覚えることでしょう。仏教ではこれを(いかり)といい、(むさぼり)、(おろかさ)とともに様々な苦しみを生む根源的な煩悩として知られています。

自分の思い通りになるもの何ひとつない、さまざまな人の助け、その時の条件が整ってはじめてすべての物事は生じえるのだと思えれば、きっと「当たり前」の有り難さに気づくことができるでしょう。

忘れ行くのは、凡夫であるがゆえに仕方のないことかもしれません。しかし、しばらくは、今あることの有り難さを受け止め、感謝の日々を過ごしたいものです。

南無阿弥陀仏

令和5年度 岳陽組檀信徒総会開催

5月14日(日)、岳陽組檀信徒総会が法源寺会館にて行われました。

浄土宗ではおおよそ各県に一つの教区があり、教区の中に「組」という単位の地域ごとのグループがあります。岳陽組というのは、富士・富士宮・沼津にある13か寺の浄土宗寺院で構成されています。この檀信徒会は、檀信徒同士でおてつぎ奉仕団に参加したり、団参に行ったりと、横のつながりを持つ場となっています(先日の春の団参はこの檀信徒会の行事です)。

昨年から対面で開催されていましたが、今年は新型コロナウイルスも第5類に移行したこともあり、各寺院の総代さん、世話人さん方、総勢58名の参加をいただき、昨年よりも規模を大きくしての開催となりました。こうした集会が再開されるにつけ、コロナ禍がひと段落し、「日常」が戻ってきたのだと実感いたします。

この総会をもって、法源寺檀家総代の井出公治さまが2年間の会長の任期を終え、次の会長へとバトンを受け渡されました。コロナ禍に悩まされ、気苦労の多い2年間でしたが、辛抱強く岳陽組檀信徒会を守っていただいたと思います。お疲れさまでした。

総会後には、東京教区香念寺(葛飾区・亀有)の下村達郎住職をお招きし、「語り合いから生まれるともいきの輪 〜お寺での介護者カフェ活動〜」と題した講演をいただきました。

下村上人が住職を務める香念寺さまでは、浄土宗総合研究所のプロジェクトをきっかけに、2016年から介護の経験や思いを分かち合う「介護者の心のやすらぎカフェ」を開催されています。

現在、家族の介護をしている人(介護者)は全国で650万人を超えるといわれています。そして、突然始まり、いつ終わるともわからない介護の中で、「本当はこうしてあげたいのにできない自分がもどかしい」「親の介護に兄弟が協力してくれない」「ついキツくあたってしまう」など、さまざまな悩みや葛藤を抱えている介護者も少なくないそうです。

そうした心のうちを打ち明けたり、相談したりする場として、お寺を活用するという動きも浄土宗では広がってきています。大事なのはアドバイスすることではなく、心の声を受け止めるということ。今風にいえば、傾聴(けいちょう)と言い換えられるかもしれません。四苦でいう、老・病・死に向き合う、仏教者ならではの活動といえるでしょう。「話を聴く」とは簡単なように思えてなかなか難しいことですが、僧侶として大事にしたいことです。

経験に裏打ちされた下村上人のお話から、これからの社会に必要な「心休まる場」としての寺院の可能性を感じました。また、参加者のほとんどは高齢の方でしたので、介護の話も身近に感じられたはずです。きっと今日のお話は心に響いたのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏

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