【9月の言葉】備えは今から

思わぬ事態が起きてから対応するのは簡単ではありません。日々準備を積み重ねていくことが大切です。
The time to get ready is now.
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浄土宗月訓カレンダーの9月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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9月1日は防災の日。各地で防災訓練が行われます。この日が防災の日となったのは、1923年(大正12年)のこの日に関東大震災が起きたことに由来するそうです。ちなみに法源寺前住職の功旭上人はこの前日、1923年8月31日に生まれました。マグニチュード7.9の大地震の揺れは、ここ富士でも感じられたようで、当時、本堂裏手にあった竹やぶに、前住職の母が生まれたばかりのわが子を抱えて逃げ込んだという話を伝え聞いております。

天災は忘れたころにやってくるとはよく言ったもの。日本は古来より、地震や津波、台風など自然災害に悩まされてきました。そうした、一大事のために日頃から備えをしておくことは大切です。

私たちが生きていく中においても一大事はあります。病気やケガも一大事ですが、一番大きなことは、この世の命を全うする時、すなわち命尽きる時です。

私たちは生まれる時代や国、家を選ぶことはできませんが、この世に生を受けたものにとって平等に与えられた条件が2つあります。

ひとつは一日が24時間であること。
もうひとつは命に終わりがあること。

お金持ちも貧しい人も、学のある人もない人も、優しい人も、いつも怒っている人も一日の長さは変わりません。そして、いつ終わるかはわかりませんが、すべての人には命の終わりがあります。しかし、日常の中で「死」を考えて生きることは少ないのではないでしょうか。

最近、ある方からこんな話を聞きました。

父親を病院に連れて行ったら緊急入院となり、そこで経管栄養(鼻あるいは口から胃まで挿入されたチューブで栄養をとること)となってしまった。誤嚥性肺炎のおそれがあることから、もう口から食事をとることができない。親父の最後の食事は、病院までの道すがら小腹ふさぎに買ったコンビニのいなり寿司になってしまった。すまないことをしてしまった、と。

私たちは明日も当たり前に来ると思っています。ご飯もまた食べられると思っているでしょう。その方も、ちょっと病院で見てもらったら帰りにおいしいものでも食べて帰ってこようと思っていたかもしれません。今の、この一食が、口から食べる最後の食事になるとは思っていなかったことでしょう。

終わりがわかれば備えもできますが、終わりは突然訪れるもの。

法然上人も以下のように言っています。

人の死の縁は、かねて思うにもかない候わず。にわかに大路みちにて、終わる事も候。大小便利のところにて死ぬる人も候。前業逃れがたくて、太刀かたなにて命を失い、火に焼け、水に溺れて、命を滅ぼすたぐい多く候えば、さようにて死に候とも、日頃の念佛申して極楽へ参る心だにも候人ならば、息の絶えん時に、阿弥陀・観音・勢至、来たり迎え給うべしと信じおぼしめすべきにて候なり。

(現代語訳)
人が死ぬ時というのは、普段の思い通りにはいかないものです。道を歩いていて突然倒れて死んでしまうこともあれば、お手洗いで用を足している最中に死んでしまうこともあります。前世での行いによって刀などで斬られて命を失うこともあれば、火事で亡くなったり、水に溺れて命を落とす人も多くいます。しかし、たとえそのような亡くなり方をしても、日頃から念佛をとなえ、極楽へ往生したいという心を持っている人なら、息絶える時に、阿弥陀様が観音菩薩と勢至菩薩と一緒にお迎えに来て下さるのだと信じて思い定めるべきです。

我々はどのようなタイミングで、また何が原因で命を落とすかわからない。だからこそ後世の安穏を願って念仏に励みなさいということですが、現代の人であれば、いつ命が終わるかわからないので悔いのないように日々精進しましょうと言い換えてもよいかもしれません。

備えは今から

今ある命は有難し。
どうぞその命を全うしてください。
そして後世の安穏のための準備を今から少しずつ始めてください。
命の終わりを思う時、念仏の声に自然と思いがこもることでしょう。

南無阿弥陀仏

「かせぎ」と「つとめ」—お盆雑考

もうすぐ8月が終わろうとしています。
今年のお盆の棚経では、お檀家の皆さんからたくさんのお話を聞かせていただきました。
健康不安の話、孫の推し活の話、親の介護の話、墓じまいを考えている友人の話などなど。

その中で、ある方から、「今年は町内会の役が回ってきた。これから数年、お祭りだなんだで忙しくなりそうだ」というようなことを伺いました。地域のために働くことは大切なことです。近年では、そうした役を断る人も増えてきていると言います。その方の地域でも、断った方がいたそうです。しかし、「でも誰かがやらないと、祭りもできないし、いろいろなことが回らないからね」とその人は受けることを決めたそうです。

文化人類学者の山口昌男(1931-2013)の本の中にこんな話がありました。

日本には「かせぎ」と「つとめ」というふたつの労働の観念があった。かつては、「かせぎ」がたくさんあっても、「つとめ」がなければ一人前と認められなかった。今は、「かせぎ」はいいかもしれないが、労働観念のなかから「つとめ」をなくしていまっている。人を見る目、社会人を見る目が「かせぎ」型になっている。

ここでいう「かせぎ」とは金銭のこと、「つとめ」とは困った時や必要な時まわりの人を助けること、といってよいかもしれません(本の中では、堤防の決壊、火事、凶作、干害、死人が出た、というとパッと出て行ってふんどし一丁で働くことが「つとめ」となっていましたが、平時にあっても回りを助けることと解釈できます)。

地域の役もまた「つとめ」のひとつと言えましょう。「かせぎ」には直結しないかもしれないけれど、共同体を維持するためには必要な労働です。共同体は地域だけではありません、家族もまた共同体です。家族は勝手に維持されているわけではなく、誰かが家族が家族であるために見えない働きをしているから維持されているのです。

私たちの社会にはこうした「つとめ」が至る所にあることでしょう。「かせぎ」の場である職場にも「つとめ」はあるでしょう。見えない労働に感謝をすることはもちろんですが、自分自身もまた誰かのために見えない労働をすることが大切です。

自分だけよければいいと考えるのは、仏教の利他の精神にも反します。

「かせぎ」だけに心を奪われ、「つとめ」を忘れてしまうことがないよう気を付けたいなと思った今年のお盆でした。

南無阿弥陀仏

おてつぎこども奉仕団への参加

8月20日(水)~22日(金)、総本山知恩院で開催された「こどもおてつぎ奉仕団」に行ってきました。今回、法源寺からは、小学校5年生の男の子2人と小学校3年生の女の子2人の計4人が参加してくれました。静岡教区以外にも、石見教区(島根)、伊勢教区(三重)、伊賀教区(三重)など全国から200を超える子どもたちが集まり、にぎやかな奉仕団となりました。

初日は結団式の後、国宝の御影堂に参拝したほか、おつとめの練習をしたり、ナイトツアーで知恩院の三門に登ったりと、知恩院や浄土宗の教えに肌で触れる一日となりました。

二日目は、朝のおつとめの後、自分だけの数珠を作ったり、法然上人のアニメ映画を鑑賞したり、午後には知恩院前の白川での水遊びもするなど楽しい一日となりました。

二日目の夜に行われる「ともしびの集い」は、暗いお堂の中でちょっぴり怖かったけど、みんなと心をひとつにあわせて教えを受け継いでいくことの大切さを学びました。

三日目は5:30に起床して、御影堂のお勤めに参加した後、清掃奉仕、さらにはこの3日間の感想文を書いて解団式となりました。

解団式に迎えに行ったときにはみんな大きな声でお勤めができるようになっていて大変驚かされました。こどもの吸収力、成長は本当に素晴らしいものですね。

よく学び、よく遊ぶ、メリハリの利いた3日間を過ごしたことと思います。帰り際には「また来年会おうね」と再会を誓ってそれぞれの帰路へ。お世話してくれた大学生のお兄さん、お姉さんからも「また来てね~」と声を掛けられていました。

その後、法源寺ご一行は荷物をもって京都駅へ。昼食を食べた後、京都タワーに登って、「さっきまでいた知恩院はどこかなぁ」と京都のパノラマを楽しみました。

お土産物をたくさん買い込んで新幹線に乗ったらあとは寝るだけ…と思いましたが、子どもたちはみんな元気。この3日間のなかで何が楽しかったか、どんなことが心に残ったか、お土産に買ったはずのお菓子をほおばりながら(笑)、めいめいにおしゃべりをして富士まで帰ってきました(子どもはパワフルですね)。

暑い中でしたが、体調を大きく崩すことなく、みんな笑顔で帰って来られたことが何よりです。また、寺報『大久』でも感想付きの記事を掲載する予定ですので、どうぞお楽しみに。

※掲載の写真は京都タワー以外、知恩院おてつぎ運動本部からいただきました。

令和7年盂蘭盆会・新盆家供養のご報告

今年も8月13日18時30分より、盂蘭盆会および新盆供養法要を行いました。新盆家、一般檀信徒あわせて50名ほどのご参加をいただき、皆さんと一緒におつとめすることができました。

お盆は「盂蘭盆」(うらぼん)の略語といわれています。盂蘭盆はサンスクリット語の「ウランバナ」の音を漢字にあてたもので、もともとは「逆さ吊り」という意味です。富士・富士宮地区では8月13日から16日がお盆の時期にあたり、仏壇をきれいにし、僧侶による棚経を受け、ご先祖様をお迎えする準備を行います(8月盆と7月盆の違いについては【こちら】をご覧ください)。

今日のお盆の由来が記されている『盂蘭盆経』には、以下の様な逸話が説かれています。

お釈迦様の弟子のひとりに、神通力を持つ目連尊者(もくれんそんじゃ)という方がいました。ある日、亡き母がどうしているかと、神通力を使って母親の姿を探したところ、餓鬼道に堕ち、飢えと渇きに苦しむ母親の姿が見えました。神通力で食べ物や飲み物を届けようとしますが、母親の元に届く前に火に包まれてしまい、母親を助けることはできません。何とか救いたいと願った目連尊者は、師匠であるお釈迦様に相談したところ、お釈迦様は、雨期に行われる修行を終えた修行僧であればその徳をもって母親を救えるかもしれない、したがって彼らに食べ物や飲み物をささげるよう目連尊者に告げました。そして、修行僧たちにもまた、この施しを受ける際には、施主家の七代の父母のために祈りを捧げるようにと伝えました。目連尊者はその通りに修行僧たちを供養し、その功徳によって目連尊者の母親は餓鬼道から救われました。

当山では毎年8月13日に盂蘭盆会を厳修し、とくにその年に初めてお盆を迎える新しい仏様の供養をねんごろに行っています。また、新盆家には早めにお集まりいただき、ご供物を一緒に袋詰めしたあと、参加者一人ひとりにお渡しし、供養のための施しをしていただきました。

ご供物には飲み物やゼリーなどを用意いたしましたが、これらは新盆家からの志納(お布施)で用意いたしました。まさに目連尊者の逸話にならった供養の在り方です。新たにお盆を迎える一切の精霊はきっと極楽に救い摂られることでしょう。

暑い中、法要にご参加くださった皆様、お手伝いいただいた新盆家の皆様、誠にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

【8月の言葉】仏縁を継ぐ夏休み

8月はお盆月。私たちへと受け継がれた仏さまやご先祖様とのご縁を、次の世代にも伝えていきましょう。
During Obon, pass along to children what we have received from our ancestors.
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浄土宗月訓カレンダーの8月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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法源寺のある富士地区は間もなくお盆を迎えます。地域によっては7月にお盆を迎えるところもありますが、これは新暦(7月)で行うか、旧暦(8月)で行うかの違いによるものです(※詳しくは過去の記事「お盆は7月?8月?」をご覧ください)。

当山では、8月13日の夜に新亡(新しくお盆を迎える故人)の供養とあわせて、施餓鬼会を厳修しています。また、8月8日から14日にかけ、檀信徒宅の棚経(仏壇回向)にうかがいます。

夏休みなので、棚経に行くと仏壇前で一緒に手を合わせてくれるお子さんたちも多くいらっしゃいます。帰省したお孫さんと一緒にお盆のお墓参りにいらっしゃる方も多くお見えになります。また、お盆明けには、数名のお子さんと一緒に「こどもおてつぎ奉仕団」として知恩院に登嶺いたします。こうして考えると、8月は何かと仏事に触れやすい時期といえます。

仏縁とは、仏様との縁のこと。私たちを仏道修行に導き、供養の心を育てる機会だと思っていただければよいかと思います。

帰省した時、親戚一同が集まり、おじいさんおばあさんからお話を聞いたり、親戚が語るひいおじいさんやひいおばあさんのエピソードに思いを馳せたりすることもあるかもしれません。自分のルーツを再確認し、こうしたいのちのつながりの中に、自分が位置付けられるということを実感するのもまた、私たちを仏縁に誘う機会といえるでしょう。自分は一人で生まれたわけではない、命のつながりの中で、自分の命を授かったと思えば、その代々のつながりに対して自然と手が合わさるはずです。

しかし、大人がそうした機会を作らなければ、子どもたちは触れることすらできません。経験がなければ、仏様との縁や供養の心が育つはずもありません。

仏縁を継ぐ夏休み

親から子へ、子から孫へ

夏休みはいろいろな体験、経験を積む良い機会です。海外旅行で異文化体験もよいでしょう。国内で様々なアクティビティに挑戦するのも楽しいでしょう。でも、お出かけのうちの1日でも2日でも構いません。仏縁を継ぐために、ぜひ一緒に、お墓参り、お寺参りをなさってください。きっとそれは、いのちのバトンを受け取った者の責務なのではないかと思います。

南無阿弥陀仏

中島地蔵尊の祭礼

7月20日、中島地区にある子育地蔵尊の祭礼で、子どもたちの健やかな成長を願う法要を行いました。

中島地区は法源寺から1㎞ほど離れたところにありますが、この子育地蔵を安置するお堂とその境内は、法源寺の飛び地境内になっています。この地蔵尊とのご縁は、時を遡ること昭和6年、当地区住まいの檀家さんが自宅に安置していた地蔵菩薩を祀るため、宅地及び堂宇を菩提寺である法源寺に寄進されたのがきっかけとうかがっております。

以来94年にわたって、中島子育地蔵尊は地域の子どもの守り仏として大切に祀られ、代々法源寺の僧侶が縁日に御祈願のお参りをしてきました。また、この日にあわせてお祭りが行われ、子供たちが叩く太鼓が町内を巡回します。

法要後の法話は、参加する子供たち向けに六地蔵のお話をしました。

お地蔵さんは六体セットであることが多いのですが、これは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻する迷いの衆生を救うため、導くためといわれています。私たちは生まれ変わり、死に変わりしながら、この六つの世界をめぐるといわれております。

責め苦を味わい心身ともに辛く苦しい地獄道、貪りの心を離れられない餓鬼道、理性的な行動ができない畜生道、いがみ合い争う心が収まらない修羅道、私たちが暮らす人間道、互いを慈しみ合い楽しく仲良く暮らす天道、それぞれの世界はこのようなものですが、私たちと全く別のところにあるわけではありません。普段の生活を振り返ってみれば、私たち自身の心の中にもこれら六つの世界があるといってよいでしょう。

そうしたとき、正しい方向へ導いてくれるのがお地蔵様です。お地蔵さまはさまざまな姿に化身して人々を救うとされています。ひょっとしたら、みなさんの周りにいるおじさん、おばさんがお地蔵さんかもしれません。

こうした地域のお祭りが、見守りの場をつくることに役立ち、子供たちの健やかな成長を助ける機会ともなります。

子どもの数が減ってきてはいますが、ぜひ継続していきたい大切な伝統だと思います。

南無地蔵尊

岳陽組檀信徒総会が行われました

5月17日、稱念寺さまの書院にて令和7年度岳陽組檀信徒総会が開催されました。

岳陽組檀信徒会としての昨年度の行事、決算の報告の後、今年度の活動予定、予算が承認されました。また、役員改選の時期でしたので、これまで会長、副会長、会計監査などをおつとめめいただいた役員の皆様に、岳陽組組長八橋俊洋上人より記念品が授与されました。

岳陽組の活動を支えていただき、ありがとうございました。

総会後は、富士宮在住のカラーセラピスト・田丸千春先生をお招きし、生活の中にあふれる色から私たちの心や体の声を聴くというお話をいただきました。田丸先生は看護師としても長年病院にお勤めで、入院患者さんや看護師研修にもぬり絵セラピーをされているそうです。

例えば、赤はやる気が出る、オレンジはビタミンカラーで会話が増える、緑はリラックスや癒しといった効果があるそうです、こうした色が心に与える影響を巧みに操りながら体調を整える助けにするというようなお話でした。

たしかに、自分が好きな色の服などを着ると気分が上がりますよね。色を使うということはあまり考えていませんでしたけど、なかなか興味深いお話でした。

ちなみに、ぐっすり寝たいときはベージュの寝具がよいのだとか…

最近疲れ気味なので試してみたいと思います(笑)

深大寺参拝(岳陽組団参)

4月12日(土)、静岡教区岳陽組の春の団参として、東京都調布市にある深大寺へ行ってまいりました。岳陽組としては98名、うち法源寺からは19名の参加でした。

深大寺は、天台宗の別格本山で、天平5年に開創されたといわれています。都内では浅草寺に次いで二番目に古いお寺です。

厄除元三大師で厄除けのお寺と多くの方から知られていますが、それ以外にも釈迦如来像は国宝に指定されており、大変見ごたえのあるお寺です。また深大寺で行われるだるま市は、「深大寺だるま市」として知られ、日本三大だるま市のひとつにも数えられています(ちなみに富士市の毘沙門天大祭だるま市も日本三大だるま市のひとつです)。

深大寺といえば「そば」が有名ですが、江戸時代にその土地がそばの生産に適しており、そば粉をお寺に納めていたそうです。そのような歴史から「深大寺そば」が多くの方に親しまれるようになりました。参道の茶屋は、ほとんどが蕎麦屋さんでしたので、深大寺参拝後、私たちもお蕎麦をおいしく頂きました。

昼食の後は腹ごなしに周辺散策。
深大寺を北へ向かうと神代植物公園があります。とても広くて、さまざまな植物があり、春夏秋冬楽しめる植物園です。この日は行楽日和であったせいかお花見や、ピクニックの人であふれていました。ちょうど桜が終わり頃を迎え、風に吹かれ散っていく桜も風情がありました。

お天気にも恵まれ、落ち着いた空気の中で過ごすことができ、とてもよい団参となりました。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。
またぜひご一緒に参りましょう!

南無阿弥陀

春彼岸信行会をお勤めしました

暑さ寒さも彼岸までと言いますが、この1週間はみぞれが降るほど冷え込んだり、汗ばむ陽気になったり、体調管理が難しい1週間でした。

そのようななか、17日には春の彼岸を迎え、中日である20日にはの春彼岸信行会を本堂にておつとめしました。

彼岸は中日を境に前後3日ずつありますが、この1週間の間に彼岸(=さとりの世界、浄土)へ行くための仏道修行を行う時期と言われています。仏道修行は以下の6つで、これらを六波羅蜜と呼びます。

布施(ふせ)・・・貪りの心を捨て他者に施すこと
持戒(じかい)・・・きまりを守ること、もし破ったら悔い改めること
忍辱(にんにく)・・・ぐっとこらえて我慢すること
精進(しょうじん)・・・努力を怠らないこと
禅定(ぜんじょう)・・・心を静かに精神集中すること
智慧(ちえ)・・・偏らない心で物事を正しく見ること

中日は春分の日で、ちょうど太陽が真東から上がり、真西に沈む日です。
沈む夕日の先には西方極楽浄土があるといわれています。
西方極楽浄土には先立った方々がいらっしゃると信じられてきました。
西に傾く太陽のその先に西方極楽浄土を想い浮かべ、そこにいらっしゃる故人に思いを馳せ念仏にいそしむのがお彼岸のあるべき過ごし方と言えるでしょう。

そうはいってもみなさまお忙しく、なかなかお参りに来ることは難しいようで、今回の信行会は少人数でのお勤めとなりました。
しかし、念仏一会の時間をたっぷりとり、礼拝も行いましたので、阿弥陀様のお顔を見ながらしっかりとお念仏をとなえることができたのではないかと思います。

忙しい日々の中で足を止めて、家族のこと、自分のことを想いながら時を過ごす。

ご参加いた皆様にとっては、そのような時間になったのではないかと思います。
一人ひとりの念仏の声がだんだんと大きくなり、本堂によく響いた春彼岸のお勤めとなりました。
よくぞお参りくださいました。

南無阿弥陀仏

【3月の言葉】香薫にあの人を想う

3月はお彼岸の月です。漂う春の香りに、極楽浄土の大切な方々へ想いを寄せるひと時としてください。
With scents of spring at Ohigan (equinox), let us turn our thoughts to the loved ones in the Pure Land.
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浄土宗月訓カレンダーの3月の言葉。
字は大本山増上寺第89世法主小澤憲珠台下の揮ごうです。
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2月は寒い日が続きましたが、このところ気温がぐっと暖かくなってきました。
花粉もちらほらと飛んでいるようで、花粉症にはつらい季節が始まります。

3月は春の彼岸のある月です。このお彼岸の時期にお墓参りに行かれる方も多いでしょう。

今年は、3月20日が春分の日(お中日)ですので、その前後3日間を含め7日間がお彼岸になります。当山では20日の18:30より彼岸信行会を行います。ぜひ本堂にお参りいただければ幸いです。

さて、今年の月訓カレンダーの3月の言葉は、「香薫にあの人を想う」です。

香薫は香と薫という二つの文字が組み合わさっています。どちらも「かおり」を意味するものですが、少しニュアンスが異なります。

「香」という字は、鼻で感じられるよい匂いがすることを意味し、具体的に感じる匂いとして用いられます。一方、 「薫」は、どことなく匂うという意味で、漂っているにおい、肌で感覚的に感じられることに対して使われ、比喩的・抽象的な表現に用いられるといいます。

仏教には、薫習(くんじゅう)という言葉があります。薫習とは、香りが物に染みつく様子になぞらえた表現で、人の精神や行いが別の人の心にまで影響を与えていくことを意味します。たとえば、よい人と行動を共にしていると、気がつかないうちに自分もよい行動をとるようになる、といったことです。

自分の考え方や行動は亡き人の薫習の賜物かもしれません。今月の言葉には、お線香のよい香りが亡き人の記憶を喚起するだけでなく、自分の内側にあるものにふと気づいた時に、亡き人の存在やありがたさにあらためて気づく、という深い意味があるように思えます。

ぜひこの春彼岸を機縁として、この世では会えない大切な人に想いを寄せてみてください。

みなさんは香薫の向こうにどんな人を想い浮かべますか?

南無阿弥陀仏

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