早いもので今年も四分の一が終わってしまいました。桜の季節もいつの間にか去り、新緑がまぶしい季節になろうとしています。
さて、浄土宗のHPにあるエッセイ集「いっしょいっしょ」に私の寄稿した文章「咲いた花見て喜ぶならば」が掲載されました。せっかくですので、檀信徒の皆様にも読んでいただきたく、以下に転載いたします。このエッセイ集、私の駄文はさておき、ほかの方々の文章はたいへん素晴らしいものばかりです。
上記の太字のところをクリックすると、リンクに飛べるようにしてあります。お時間のある時にお読みいただければ幸いです。
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昨春に起こった新型コロナウイルスに私たちは今も翻弄されています。生来、楽観的な性格の私は、これほどまで深刻化、長期化するとは思っていませんでした。しかし、その見通しは甘く、最近では変異株まで現れ、さらなる対応を余儀なくされています。
一年以上に及ぶコロナ禍の影響は、これまでギリギリで踏ん張っていた人たちにより厳しく現れました。非正規労働者、ひとり親家庭、在留外国人等、頼る人が少なく、立場の弱い人たちほどより深刻な状況におかれています。
私が代表を務める、路上生活者への炊き出し・配食活動を行っている生活困窮者支援団体「ひとさじの会」では、在日ベトナム仏教信者会との交流があり、これまで多くの在日ベトナム人ボランティアが活動に参加してくださいました。彼らの多くは、留学生や技能実習生として来日した若い世代の方々です。
このコロナ禍で、仕事を失った技能実習生もいます。帰国する予定だったのにいまだ帰れない留学生もいます。こうした状況を知り、せめて食だけでも支援できないかと、昨年「在日ベトナム人への緊急施米支縁プロジェクト」を行い、これまで20トンのお米をお送りしました。
私たちがこのように日本にいるベトナムの方々に心を寄せているのは、ひとさじの会として直接的な関わりがあるのはもちろんですが、技能実習制度の構造的な問題が、路上生活者のそれと非常に似通っているところにもあります。
現在、技能実習生がいなければ農業や漁業は成り立たないと言われています。とくに、技能実習生に占めるベトナム人の割合は41.6%と最も多く、農業や漁業を支える重要な担い手になっていると言っても過言ではありません。私たちがコンビニで買うおにぎり一つとっても、米の生産から中身の具材の加工に至るまで、多くの部分で技能実習生の力を借りているのかもしれません。しかし、目に見えない労働の裏側で、技能実習という名の搾取が横行していることも事実です。
日本語は喋れるけど堪能でない。日本の法律に疎い。職場での立場が弱い。様々な理由が考えられますが、こういった、言語スキル、情報の非対称性や社会的立場の弱さなど、私たちが普段かかわっている路上生活者の方々と重なり合う部分が多くあります。
路上生活者の多くは、かつて、体を資本とし、高度経済成長期の日本の建設現場を支えてきました。私たちが使っている道路や建物の中には、そういった方々の力によってできたものが数多くあります。しかし、バブルの崩壊、労働者自身の高齢化や現場の機械化など、活躍の場が失われていきました。路上生活者の方々の中には、貧困ビジネスによる搾取の対象となってしまわれた経験をお持ちの方もいます。
私たちの幸せが誰かの不幸せの上に成り立っているのだとしたらそれは悲しいことです。そして、それに対して無自覚でいることも、見ないふりをしていることも、また悲しいことです。今ある生活はきっと自分一人で手に入れたものではないはず。目に見えない多くの縁によって支えられている「今」を有難く受けとめ、自分に何ができるか考えたいものです。
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※写真は、「雪晃」(セッコウ)というサボテンの花です。春に訪れた伊豆シャボテン公園を訪れた際、あまりにきれいでしたので写真に収めてきました。花言葉は「あたたかい心」だそうです。