「世間の物差し」を手放そう

5月の中旬、ある全国紙の読者からの相談コーナーで、50代の会社員女性から子どもに関する相談が寄せられていました。

簡単に紹介すると、「友人の子どもは進学校に行き、有名大学に進学した。自分の子どもは誰一人進学校に行けなかった。自慢したかったのに全くできない。できる子の親がうらやましい、自分の子の出来の悪さが恥ずかしい」というものです。

子を持つ親になって感じたことですが、このお母さんの気持ちもわからないわけではありません。生まれたときは五体満足で生まれてきてくれれば、とそれだけ願っていたのに、成長するにつれ、つい、「あれができたら」、「これができたら」と考えてしまいます。そして、「これができたら」の「これ」は社会で評価が高いものだったり、世間で価値が認められているものだったりします。

このお母さんのように「自慢したい」という動機ではなくても、我が子に社会で成功してほしい、社会で立派と言われるような人になって欲しいという思いは少なからず持つのではないでしょうか。しかし、世間や社会の評価基準でうまく測れない子どもたちもいます。「自分は〇〇ができない」「自分には価値がない」なんて思ってしまうと、自己肯定感が得られないまま育ってしまうことになりかねません。

さて、6月の中旬、同じ新聞の読者からの相談コーナーで、20代のアルバイト女性から、こういった相談が寄せられていました。

かいつまんで紹介しますと、「自分の存在意義がわからない。才能はなく、中学校も不登校、高校もすぐに休学してしまった。その後、通信制高校を卒業したものの、学歴はない。私は負け組だろう。言い訳を考え、周りのせいにしようとする自分の浅はかさも嫌だ。自分は何のために生きているのだろうか」というものです。

まるで、さきほど紹介した「相談」のつづきのようなものです。相談を寄せた両者に親子のつながりがあるわけではないでしょうが、これを読んで心が苦しくなりました。

生まれてきたときには、「生まれてきてくれてありがとう」、「元気でいてくれればそれでいい」と願ってたのに、いつの間にか世間の物差しで我が子を測ってしまう。その結果、生きづらさを抱えて苦しい思いをしている人が少なからずいます。でもその「世間の物差し」は未来永劫不変でしょうか? 

ある時、急に日の目を浴びたり、逆にそうでなくなったりすることなんていっぱいあります。スポーツ競技が、オリンピック種目に採用されるかどうかなどは典型的な例といえるでしょう。採用されれば、スポットライトが当たり、メディアでも特集が組まれます。競技人口にも影響するでしょう。

さて、浄土宗で大切にされている経典の一つに『阿弥陀(あみだ)(きょう)』というお経があります。その中には、「青色(しょうしき)青光(しょうこう) 黄色(おうしき)黄光(おうこう) 赤色(しゃくしき)赤光(しゃっこう) 白色(びゃくしき)白光(びゃっこう)」という一説があります。

これは、阿弥陀仏の浄土に咲く蓮の花のありさまを語ったもので、「青き色には青き光、黄なる色には黄色の光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり」という意味です。もっといえば、私たち一人ひとりが、すでに、それぞれの色を持ち、光り輝いていることを語っています。青い色は、黄色い光を放とうとはしないですし、赤い色は、白い光になろうとはしません。

私たちは、すべからく本来の姿のままで、価値ある尊いものです。誰もがみな、得意なこと、不得意なこと、できること、できないことを持っています。今できることすら永久ではありません。年老いて、あるいは体の具合が変化して、それまでできていたことができなくなってしまうこともあるかもしれません。他者と比べて多少(すぐ)れたところがあったとしても、仏様からしたら大した違いのない凡夫(ぼんぶ)にすぎないのです。

どうしてうちの子はこれができないのかとお悩みの親御さんたち、自分はなぜうまくいかないのかと生きづらさを抱えている方々、ぜひ「世間の物差し」を手放してみてください。人は生きているだけで価値ある尊いものです。他者と比べて、自らを苦しめないでください。

ただいま子育て真っ最中の私です。この法話を、自らの戒めとしたいと思います。

南無阿弥陀仏

PHP Code Snippets Powered By : XYZScripts.com