じゃがいも収穫しました

東海地方は梅雨入りしたようですが、大雨が降ったかと思えば、真夏日に近いピカピカの晴れ日が続いたり、体調管理にも気をつかう今日この頃です。

さて、法源寺農園部では梅雨入り前の5月末にじゃがいも掘りをしました。昨年の反省を生かし、おかげさまで豊作となりました。参加者一同で分け合うだけでなく、いつも活動を見守ってくださる近隣の方にもおすそ分けし、喜んでいただきました。

翌週は、じゃがいもを栽培していたところに枝豆を植え、ミニトマトの雨よけも設置しました。もともとトマトは中南米の高地が原産地で、乾いた環境を好む野菜です。雨水が急激に根から吸収されると、実にヒビが入ってしまうので雨よけが必要なんだとか。自然を相手にすると、学ぶことがたくさんありますね。

ここ数回は、若者たちだけでなく、お檀家さん、ボランティアの方々も参加してくださり、社会参加の場としても農園部の活動が定着してきたように思います。最近は、一人で畑に来て「草とりしておきました!」と連絡をくれる若者も現れるようになりました。皆が喜ぶようにと思ってのこうした行動は、本当に嬉しいものです。

法源寺農園部の畑は、細い路地に面した場所にあります(お寺からは徒歩1分です)。車は通れませんが、地域の方が抜け道としてよく使います。地域の方々もこの路地を通るたびに声をかけて下さり、地域内での認知度も上がってきたように思います。

こうして、身体を動かす喜び(農作業)、成果を得る喜び(収穫)、他者と交流する喜び(挨拶&声掛け)を体感することは、いずれ社会に出ていく若者にとって大きな後押しになることでしょう。趣味に毛が生えた程度のわずかな農園部の活動ですが、生きづらさの解消に少しでも役立つことができたら野菜の収穫以上の大きな成果ではないかと思います。

これからも応援よろしくお願いいたします。

南無阿弥陀仏

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※本活動は、公益財団法人浄土宗ともいき財団の助成を受けています。

【6月の言葉】こころ耕す なむあみだぶつ

往生を願い、お念仏をとなえ続けるなかに、
阿弥陀さまや極楽浄土への想いは自然と育まれます。
Each time you chant nembutsu, your faith in Amida Buddha deepens.
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浄土宗月訓カレンダーの6月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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浄土宗では「なむあみだぶつ」ととなえることが大切と説きます。
「なむ」とは「帰依する」という意味で、わかりやすくいうと「お任せする」「お願いする」ということです。「あみだぶつ」とは阿弥陀仏のこと、すなわち、私たちを西方極楽浄土へ救い取って下さる如来さまのことです。つまり、「なむあみだぶつ」ととなえることは、「あみださまどうぞお願いします」という私たちの救いを求める願いを形(言葉)にして、阿弥陀さまに届けるものです。

今でこそ「念仏」といえば、この「なむあみだぶつ」と声に出してとなえることを指しますが、声に出すことを勧めたのは浄土宗を開いた法然上人で、それ以前は心に仏の姿を想い浮かべる観想念仏(かんそうねんぶつ)が主流でした。では、法然上人は、なぜ声に出す念仏を推奨したのでしょうか?

それは、いつでも、どこでも、だれでもできるからです。

観想念仏を行うには、まず思い浮かべる仏の姿を知っていなければいけません。それは、阿弥陀経などの経典に書かれていますが、経典を読んで理解できるのは、貴族や僧侶など一部の人だけでした。

そして、仏の姿を知っていても修行に集中できる環境がなければ実行することはできません。その日その日の暮らしにあくせくしている一般民衆にとって、日常を離れて精神集中できる場や時間を確保するのは難しいことでした。

法然上人自身は、比叡山で智慧第一の法然坊と呼ばれるほどの秀才でしたから、経典の内容も理解していたでしょう。また、比叡山は修行道場ですから、生活の糧の心配をせずに修行に打ち込むこともできたでしょう。しかし、観想念仏のみを往生の行としてしまえば、これを行えない一般の人々は、仏の救いに与れないことになってしまいます。ですので、「念じることは声に出すことと同じ」と解釈し、より簡単な声に出す念仏を勧めたのです。

さて、法然上人が亡くなる二日前に遺したとされる『一枚起請文』には、以下の一節が出てまいります。

ただし三心四修と申すことの候は、皆決定して南無阿弥陀仏にて、 往生するぞと思う内にこもり候なり。

三心(さんじん)とは、噓偽りの無い真の心(至誠心)、自身の至らなさを自覚し仏さまの救いを深く信じる心(深心)、極楽浄土へ往生したいと願う心(回向発願心)の三つの心のことを言います。四修(ししゅう)とは、仏さま対していの心を持つこと(恭敬修)、お念仏以外の諸行を修めないこと(無余修)、忘れずに念仏をとなえること(無間修)、念仏の教えに帰依(したら臨終のときまで念仏を怠らないこと(長時修)の四つの実践態度のことを言います。

つまり、念仏を漫然ととなえるだけでなく、こうした心構えや態度が必要だというのです。これはちょっと難しそうですね。でも大丈夫です。これらさえも、となえているうちに自然とそなわっていくんだというように説かれています。難しく考えずに、まずは実践せよ、ということですね。

こころ耕す なむあみだぶつ

ひとたびなむあみだぶつととなえると、私たちのこころは耕され、仏様のことや仏教のことを大事だと思える種が芽吹きやすくなります。「こころ耕す」とはそういう意味でしょう。

私たちは、何をするにも「これをするとどうなるのか」、「どのくらいすればいいのか」など頭で考え、メリットとコストを比べて功利的に行動をとりがちです。

しかし、やってみることで新たな気持ちが芽生えたり、心持ちが変わったりして、さらに私たちの行動に影響を与えることもしばしばあります。人生の豊かさは、コスパ(コストパフォーマンスの略)だけでは測れない、そうしたところにあるのではないでしょうか。

ぜひ、法事や墓参の際には、大きな声でなむあみだぶつとおとなえください。気持ちや行動に変化が現れるかもしれません。

南無阿弥陀仏

当たり前こそ有り難い

私は、毎朝、新幹線で東京の大学へ通っているのですが、最近、大勢の中学生が向いのホームに集まっている光景をしばしば目にします。そう、修学旅行です。

はるか20数年前、私の時もそうでしたが、富士市内の中学生はだいたい奈良、京都方面に向かうことがお決まりです。下りホームの壁には、「いってらっしゃい!」の掲示も。
しかし、こうした光景は実に4年ぶりです。

5月になり、新型コロナウイルスが感染症法上の第5類に移行して、ようやく社会生活も「日常」に戻ろうとしています。法事も遠方から親戚を呼び、大勢の参列者を集めて営む方も増えてきました。久しぶりの再会に、顔がほころび、話が弾んでいらっしゃる様子をうかがうにつけ、こうして集まることを待ち望んでいたのだなぁとしみじみ感じます。

そんな皆さんのお姿を拝見し、先日のご法事ではせっかくですからと記念写真を勧めてしまいました。次の法事の際には、その写真を眺めながら「ずいぶん大きくなったね」「すっかり年を取ったね」など、一層話に花が咲くことと思います。

修学旅行に行くこと、法事を営み人と会うこと、私たちはこれまで当たり前のように行ってきました。しかし、私たちの「当たり前」は、いとも簡単に崩れ去ることも経験しました。そして、何気ない日常の中で積み重ねている日々の行いは、とても有り難いものであったのだと気づくことができました。

悲しいかな、人は忘れてゆく生き物です。喉元過ぎれば熱さを忘れるという格言がありますが、ひとたび「当たり前」になってしまうと、またその有り難さを忘れてしまうものです。

当たり前だと思うと、なぜできないのか、どうして思い通りにならないのか、怒りや苛立ちを覚えることでしょう。仏教ではこれを(いかり)といい、(むさぼり)、(おろかさ)とともに様々な苦しみを生む根源的な煩悩として知られています。

自分の思い通りになるもの何ひとつない、さまざまな人の助け、その時の条件が整ってはじめてすべての物事は生じえるのだと思えれば、きっと「当たり前」の有り難さに気づくことができるでしょう。

忘れ行くのは、凡夫であるがゆえに仕方のないことかもしれません。しかし、しばらくは、今あることの有り難さを受け止め、感謝の日々を過ごしたいものです。

南無阿弥陀仏

令和5年度 岳陽組檀信徒総会開催

5月14日(日)、岳陽組檀信徒総会が法源寺会館にて行われました。

浄土宗ではおおよそ各県に一つの教区があり、教区の中に「組」という単位の地域ごとのグループがあります。岳陽組というのは、富士・富士宮・沼津にある13か寺の浄土宗寺院で構成されています。この檀信徒会は、檀信徒同士でおてつぎ奉仕団に参加したり、団参に行ったりと、横のつながりを持つ場となっています(先日の春の団参はこの檀信徒会の行事です)。

昨年から対面で開催されていましたが、今年は新型コロナウイルスも第5類に移行したこともあり、各寺院の総代さん、世話人さん方、総勢58名の参加をいただき、昨年よりも規模を大きくしての開催となりました。こうした集会が再開されるにつけ、コロナ禍がひと段落し、「日常」が戻ってきたのだと実感いたします。

この総会をもって、法源寺檀家総代の井出公治さまが2年間の会長の任期を終え、次の会長へとバトンを受け渡されました。コロナ禍に悩まされ、気苦労の多い2年間でしたが、辛抱強く岳陽組檀信徒会を守っていただいたと思います。お疲れさまでした。

総会後には、東京教区香念寺(葛飾区・亀有)の下村達郎住職をお招きし、「語り合いから生まれるともいきの輪 〜お寺での介護者カフェ活動〜」と題した講演をいただきました。

下村上人が住職を務める香念寺さまでは、浄土宗総合研究所のプロジェクトをきっかけに、2016年から介護の経験や思いを分かち合う「介護者の心のやすらぎカフェ」を開催されています。

現在、家族の介護をしている人(介護者)は全国で650万人を超えるといわれています。そして、突然始まり、いつ終わるともわからない介護の中で、「本当はこうしてあげたいのにできない自分がもどかしい」「親の介護に兄弟が協力してくれない」「ついキツくあたってしまう」など、さまざまな悩みや葛藤を抱えている介護者も少なくないそうです。

そうした心のうちを打ち明けたり、相談したりする場として、お寺を活用するという動きも浄土宗では広がってきています。大事なのはアドバイスすることではなく、心の声を受け止めるということ。今風にいえば、傾聴(けいちょう)と言い換えられるかもしれません。四苦でいう、老・病・死に向き合う、仏教者ならではの活動といえるでしょう。「話を聴く」とは簡単なように思えてなかなか難しいことですが、僧侶として大事にしたいことです。

経験に裏打ちされた下村上人のお話から、これからの社会に必要な「心休まる場」としての寺院の可能性を感じました。また、参加者のほとんどは高齢の方でしたので、介護の話も身近に感じられたはずです。きっと今日のお話は心に響いたのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏

夏野菜のシーズンです!

GWも残りわずか。法源寺農園部をはじめてからここ3年は、この時期は夏野菜とサツマイモの植付に忙しい日々を送っています(法源寺農園部については【こちら】をご覧ください)。

大体、GWのはじめに、土を耕し、畝立をし、GWの終わりに夏野菜の苗やサツマイモのつるを植え付けるという感じです。

鍬(クワ)で耕しています
マルチを張って準備万端

今年は、耕運機の調子がイマイチで人力で耕しましたので大変でしたが、就労をめざす若者だけでなく、活動に賛同してくれたお檀家さん、ココ☆カラの活動を応援するボランティアの方も手を貸してくださり、何とか予定通り畝立を行うことができました。
みなさんのお力なくしては不可能でした。本当にありがたいかぎりです。

サツマイモは、昨年と同じ安納芋と紅はるかを植えました。畝の本数を倍にしたので、収量も増えるのではと期待しています。暑さに負けず、ちゃんと根を張ってくれるでしょうか。

夏野菜は、ミニトマトとスイカを植えました。畝の周りに防草シートを張ったので、草取りの手間が少しは軽減されるのではないかと思います。こうしてみると、ずいぶん畑っぽくなりましたね(笑)
写真奥(右側)のジャガイモも青々と茂っており、こちらも収穫が楽しみです。

農園部の活動をしていると、本田路津子さんの「一人の手」という歌がいつも頭の中に思い浮かびます。一番の歌詞は以下の通りです。

一人の小さな手 何もできないけど
それでも みんなの手と手をあわせれば
何かできる 何かできる

(一人の手/本田路津子/1971年)

一人では続けることが困難でも、仲間がいれば頑張ろうという気持ちになります。農園部の活動が3年目に入り、公益財団の助成を受けるまでになったのも、参加してくれる若者や、賛同してくださる檀信徒の方、地域の方の支えがあってこそです。

みんなと手と手を合わせて、これからも素敵な農園活動を続けていけたらと思います。

老若男女、すべての人に役割があります

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※本活動は、公益財団法人浄土宗ともいき財団の助成を受けています。

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【5月の言葉】ゆっくり休んで また動き出す

疲れたときは、ひと息つくことも大切。
心にも体にも英気を養い、また歩みはじめましょう。
When you are tired, take a rest. Then start forward afresh.
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浄土宗月訓カレンダーの5月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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今年のGWはどう過ごされますか?
カレンダー通りであれば5連休。うまく休みが取れれば最大9連休になるようです。コロナ禍明けのGWということもあり、遠くへ出かける人も多いのではないでしょうか。

新年度がはじまり、忙しい日々を過ごしている中で、この連休でようやく一息つけるという人もいるかもしれません。

出かけるにせよ、ゆっくり過ごすにせよ、休むことは大事なことです。

以前、海外で働く方とお話した際、「日本人は休むことは悪いことだと思っている。休みは職場に戻ってきたときに最高のパフォーマンスを出すために必要なものだから、休むことは全然悪いことじゃない」と言われたことがあります。
たしかに、それまでは「休んですみません」という気持ちになってしまっていましたが、この話を聞いてからは休むことに対するイメージが変わりました。

体力だって気力だって消耗するものです。疲れたときはゆっくり休んで、リフレッシュすることが大切です。そうでなければ、持っている力が十分に発揮できないですからね。

さて、お釈迦様は、さとりを開く前、過酷な修行を行っていたといわれています。断食しながらの厳しい修行で身はやつれ、骨と皮だけになるほどの苦行でした。しかし、どれだけ苦行を続けても、さとりに達することはできませんでした。

そんな折、近くの村に住むスジャータという娘が、衰弱したお釈迦様の身を案じ、乳粥を供物としてささげました。お釈迦様は、最初は断食行の最中だと断りましたが、思い直してその供養を受けることにしました。一緒にいた修行仲間は、その姿を見て「あぁシッダールタ(お釈迦様の名前)は、苦行から脱落した」と失望し、お釈迦様の元を離れました。

しかし、スジャータの供養を受け、川で沐浴をし、心身共にリフレッシュしたお釈迦さまは、菩提樹の下で坐禅を組み、瞑想を続け、さとりを開くことができたと伝わります。

お釈迦様は、休むことでこれまでのやり方を見直すことができ、結果として悟りを得ることができたのです。

ちなみに、この「スジャータ」、めいらくが販売するコーヒーミルクの名前にもなっていますが、乳粥をささげたスジャータの名前から来ています。

ゆっくり休んで また動き出す

私たちは「人に優しくしましょう」と教わりますが、「自分に優しくしましょう」とは教わりません。でも、自分を大切にできなければ、人を大切に扱うこともできないのではないでしょうか。場合によっては、自分だってこんなに頑張っているんだ、自分が無理してここまでできたのだから他人もできるはず、と厳しくあたってしまうこともあるかもしれません。

休むことで、気力や体力が回復し、心に余裕が生まれます。

心に余裕ができると、きっとまわりのこともよく見えるはず。

困っている人や無理している人の苦しさや辛さに気づくことができるでしょう。自分がいっぱいいっぱいでは、なかなかまわりを見ることも、ましてや手を差し出すこともままならないですからね。

優しい人になるためにも、まずは自分に優しくしましょう。

南無阿弥陀仏

花壇の整備

かねてより殺風景な農園を何とかしたいなぁと思っていましたが、ようやく2つ目の花壇を整備しました。

以前より植えてあった、チューリップやネモフィラはすっかり花の盛りを過ぎてしまいましたが、今回は花がより長く楽しるマリーゴールドとかすみ草を選び、見た目も楽しめるよう、配置にも工夫を凝らしてみました。

初夏のような気候の中、日差しの下での作業は汗ばむものでしたが、花壇が完成すると参加者一同、顔に笑みが浮かびました。緑一色の畑に、鮮やかな色彩が加わり、道行く人の目も楽しませてくれることと思います。

花植えの後はジャガイモの畝の雑草取り。こちらも気温の上昇とともに伸び盛りです(笑)

作業後は本堂前で一服。参加してくれた若者たちからは、今ここで働いているとか、こういうことに挑戦したいとか、春らしい報告を聞くことができました。

まもなく夏野菜のシーズンが始まります。今年は何を育てようかなとみんなで話し合い、次の活動に向けワクワクした気持ちになりました。

小さな小さな農園です。お檀家さんにはプロも多いのでお恥ずかしい限りですが、お寺にお立ち寄りの際はどうぞご覧になってください。また、活動に関心のある方はぜひご一報ください。一緒に汗をかきましょう。

南無阿弥陀仏

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法源寺農園部はその活動のユニークさが評価され、今年度から公益財団法人浄土宗ともいき財団助成事業に採択されました。この財団は、大正3年に報恩明照会として創設された浄土宗の公益財団法人で、おもに寺院の社会活動の推進、助成を行っています。
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春の団参に行ってきました

4月9日、コロナ禍もひと段落ということで、岳陽組檀信徒会の春の団参に行ってまいりました。

ちなみに、団参とは団体参拝のこと。いわば、寺社仏閣の参詣と行楽を兼ねたバス旅行です。今年の行き先は藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)と大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)でした。

大正大学の先生でもある長澤執事にお話をいただきました

箱根駅伝でもよく登場する藤沢の遊行寺は、正式には「(とう)沢山(たくさん) 無量光院(むりょうこういん) 清浄光寺(しょうじょうこうじ)」といいます。踊りながら念仏や和讃を唱える「踊り念仏」を全国に広めた一遍上人を開祖とする時宗の総本山として知られています。実は、この一遍上人は、法然上人の弟子・証空上人の孫弟子にあたり、浄土宗の教えを深く学んだことから、時宗と浄土宗は縁が深いのです。

額には「清浄光寺」の字が

一遍上人は、特定の寺にとどまらず全国を行脚し、踊り念仏や念仏札による民衆教化に努めたことから遊行上人と呼ばれています。ここから、時宗の法主(一番偉い僧侶)を遊行上人と呼び、遊行上人のいるお寺として、遊行寺の名称が使われるようになりました(実際に遊行寺を開かれたのは4代目の呑海上人です)。

阿夫利神社(下社)

大山阿夫利神社は、江戸時代多くの民衆の参詣を集めた「大山詣り」の地としても有名です(古典落語の演目にもありますね)。阿夫利神社の名称は、大山の別名・雨降り山に由来します。雨が降ることから、雨乞いや五穀豊穣の祈願の対象とされてきたそうです。

大山寺 ケーブルカーで途中下車するとすぐです

また、神仏習合の霊山と知られ、山の中腹には大山寺(おおやまでら)という真言宗の寺院もあります。ちなみに、この大山寺の山号も雨降山(あぶりさん)といいます。

お参りの後は、どれも美味しく見えてしまいます

バス降り場からケーブルカー乗り場までは「こま参道」といい、階段が連なるのぼり道。しかし、両脇にお土産物屋さんや食事処がならぶ、いわゆるお楽しみゾーンとなっています。こうして目を楽しませるものがあると、階段が続いていても苦ではありませんね(笑)

天候にも恵まれ、景色も大変きれいでした

急こう配のケーブルカーに乗り、阿夫利神社(下社)へ行くと、遠く相模湾まで見渡せる絶景が広がっていました。もちろん、下社までケーブルカーに乗らずに徒歩で登る(下りる)こともできます。この日は、天気も良かったので、多くのハイカーでにぎわっていました。

団参に参加された皆さんは、大山の階段に苦戦しながらも、それぞれに楽しんでおられる様子でした。寺社参詣を通じて、法話を聴き、楽しみながら体を動かすことで、身体も心も健康になることと思います。

これからも、こうした機会を設けてまいりたいと思いますので、ぜひご一緒に参りましょう。今回参加された方も、参加できなかった方も、多くの方のご参加をお待ちしております。

南無阿弥陀仏

【4月の言葉】未来は善き縁で開かれる

この季節にはさまざまな出会いがあり、
なかには善い方向へと導いてくれるものも。
一つひとつの出会い、大事にしたいですね。
Good encounters can lead you to a better future.
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浄土宗月訓カレンダーの4月の言葉。
字は大本山清浄華院第83世法主飯田実雄台下の揮ごうです。
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春は別れの季節でもあり、出会いの季節でもあります。
新しい環境に身を置き、新たな交友が生まれる方もいるでしょう。
ライフステージの変化により故郷に戻り、旧友との再会を果たす方もいるでしょう。

仏教では縁起(えんぎ)という考え方があります。もともとは「因縁生起(いんねんしょうき)」という言葉ですが、私たち人間やすべての物事は、互いに関係しあって、また影響を与え合って存在しているという意味です。

もう少し詳しく言うと、因とはそれなくしては生じえない原因のこと、縁とは生じるための諸条件のことをいいます。例えば、花を咲かせるそもそも種を植えなければいけません。したがって、花にとっての因は種にあたります。しかし、種だけあれば花が咲くわけでもありません。適度な気温、日光、水など、眼を出し、根を張り、成長するための条件が必要です。この諸条件が縁となります。

私たちに置き換えてみれば、今ここにこうしているのは、父母あってこの世に生を受けたからにほかなりません。そうしてみれば、父や母は、まさに直接の原因です。一方、「私」というアイデンティティを持った人間が存在するのは、こんにちまで生きてきた中で、多くの人に出会い、感化され、学んだり、喜んだり、悲しんだり、悩んだりしてきたからです。先生、友達、兄弟姉妹、近所の人、さらには偉人や有名人など、直接話したり、その言葉に感銘を受けたり、経験や体験を通じて「私」という自己が形成されてきたのではないでしょうか。これらの方々(もちろん父母も含め)が、こんにちの私を私たらしめる条件(縁)ということになります。

また、これは一方的な関係ではありません。私たち自身もまた誰かの因となり、縁となりえます。私たちは、こうした相互の関係性の中で互いに支え合い、助け合って存在しているのです。

未来は善き縁で開かれる

きっとこの春の出会いの中で、新たなことに挑戦したり、これまで気づかなかったことに気づいたりして、新しい自分の可能性に触れることでしょう。そして新しい自分との出会いもまた、あなた自身を善き未来へと導く大きな原動力になるものと思います。

どうぞ人とのつながりを大事にお過ごしください。
何気ない日々の経験や体験を大切に受け止めてください。

わたしたちを未来へ導く善き縁は、きっとその中にちりばめられていることと思います。

南無阿弥陀仏

令和5年春彼岸信行会&ミニコンサート開催

3月21日18時30分より、春彼岸信行会をお勤めしました。
今回は法要後に、お檀家さんでフルート・オカリナ教室を主宰されている村林涼子さんに演奏いただきミニコンサートを開催しました。本堂でのコンサートは、初めての試みでしたが、村林さんの素晴らしい演奏で、フルートやオカリナの音色が響きわたり、いつもの本堂とはまた一味違った素敵な雰囲気に包まれました。

ミニコンサートでは、「故郷」にはじまり、「春の小川」「七つの子」といった唱歌、坂本九の名曲「見上げてごらん夜の星を」「上を向いて歩こう」を演奏いただき、参加の皆さんと共に一緒に歌いながら楽しみました。

コロナ禍も収束に向かいようやく日常に戻りつつあります。こうして、声を出して一緒に歌うことができる日々がまたやってきたことを共に喜びながらひとときを過ごしました。

今回の信行会では、子どもの参加も多く、元気なお念仏の声が本堂中に響いていたのも大変喜ばしいことでした。

以前のように、多くの方がお寺に集まってくださるよう今後も務めてまいりたいと思います。

南無阿弥陀仏

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